札幌に住んで5年。実は私の中でも、二条市場は近くて遠い存在だった。そこで店の方から話を伺う前に、ひとり歩いてみることに。
「いらっしゃーい!」「何かお探しですか」。
行く先々で威勢の良い声が掛かる。市場ならではのワクワク感。何か買いたい。けれど、立派なカニやメロンが目に入ると、「…」。財布のひもを緩めることができない自分がいる。
結局、素通りしてしまい、ふらり迷い込んだのは、一角にある二階建ての飲食店街「のれん横丁」。細い通路の壁に飾られた、モノクロ写真に目が留まった。
それは、かつての二条市場。全景を捉えた一枚は、アーケードが整備される前だ。山積みの魚や、何とも懐かしい玉子屋の様子も。まさに、ここが“市民の台所”だった時代が刻まれていた。
二条市場の始まりは、明治初期。石狩川をさかのぼってきた漁師が、この付近で新鮮な魚を売ったのがきっかけだそう。北海道開拓が始まったのも同じ頃だから、札幌の町とともに、この市場も産声を上げたというわけだ。
当時、札幌を流れる川は「水路」の役目を果たしていた。創成川も船が行き交い、大量の荷物を積み下ろししていたという。人やモノが交差する場所に、にぎわいは生まれる。二条市場は、川があったからこそ、自然に発生した市場なのだ。
ちなみに、当初は創成川対岸の西1丁目で商いをしていたそう。そのうち、川の東側に一部が移動。13軒によってつくられた「十三組合」が、現在へとつながる。
1902(明治35)年には火災で焼失するも、約一年後に再建。1910(明治43)年には、旅籠屋や五銭そば屋、居酒屋なども集まる一大マーケットに成長する。
「十三組合」時代から4代続く老舗店「能登水産」の専務取締役・能登利夫さんは、二条市場で働く一番の古株だ。幼い頃から店を手伝い、買い物客でごった返す昭和の頃をよく覚えている。「あの頃は馬車が多くて、車のタイヤは三つだったね」と懐かしげ。
昭和初期までは、豊漁のニシンを100箱近く積み上げ、売りさばくこともあったそう。
「朝獲りのイカも、何十杯も売ったよ」と語るのは、「池田商店」の2代目・池田訓久さん。
父・春雄さんは「能登水産」で長く勤め、1947(昭和22)年ごろ独立。「昔はアーケードの屋根に上って遊んだり、創成川でヘビを捕まえたりしたもんさ」。能登さんと同じく、二条市場で生まれ育った池田さんの言葉には、郷愁と愛着がにじむ。
改めて二条市場を見回してみる。〝市民の台所〟だった時代を知ると、海外の観光客でにぎわう今の風景が、新鮮に映る。一体いつから、観光スポットへと変転したのだろう。
「35年くらい前かなぁ」と振り返るのは、「宮田商店」を営む佐々木一夫さん。札幌二条魚町商業協同組合の理事長だ。
35年前…といえば、バブル前夜の鼓動が感じられた頃。札幌の人口は140万人を超え、都市化が進んでいた。人が増えれば、街も変わる。スーパーマーケットの台頭。地下鉄の開通。中央区のドーナツ化減少。通勤客や主婦たちは、徐々に二条市場から遠ざかったという。
普通なら、存続の危機だろう。
ところが、ここは違った。「何といっても、場所がいいでしょ」と佐々木さん。
テレビ塔から徒歩5分。都心に最も近い市場に押し寄せたのは、本州からの旅行客だった。
当時、北海道観光ブームの真っ只中。「旅の記念に何か買いたい」「北海道らしいものが欲しい」。求めに応じて品揃えを変え、気づけば、カニやサケなどの北海道物産がメインとなり、観光土産品や高級果物が並ぶように。北海道人気がアジア圏に拡大した今も、そのスタイルが続いている。
観光名所となることで、生き残りに成功した二条市場。その姿はたくましくもあるが、市民としてはちょっと寂しい気もする。
それでは実際、二条市場は観光客だけのものなのだろうか。
かつての呼び名は「二条魚町」。そう聞くと、確かに生魚や切り身が並ぶ、鮮魚店らしい店構えも。カニやメロンに気を取られていては気づかない、二条市場の“素顔”を見つけた気がした。