麦酒醸造所決定を覆し札幌へ
山崎由紀子/一道塾塾生
村橋久成は、薩摩藩主島津家の一門である加治木島津家の分家という由緒ある家柄で、将来は家老職につき藩を背負って行く地位にあった。慶応元(1865)年のイギリス留学生の中でも、家柄の良さは群を抜いていた。それだけに、西洋の文明を学び世界の進歩に目を見張り、藩人という意識が薄れて行くことに恐れを抱いた。悩み、葛藤に耐えきれなくなり、一年早く帰国した。
藩命によるイギリス留学を途中放棄して帰国した藩中の眼は冷たかった。帰国の真意を説いても、西洋を知らなくては理解できる筈もない。村橋は、いつの間にか黙して語らぬ人を装うようになった。
おれにはおれの生き方があるという態度は理解されず、下級藩士たちが自由に活躍し、出世してゆく姿を、黙って見ていた。
明治2(1869)年の箱館戦争を経て、開拓使へ出仕し、七重開墾場300万坪の開墾や、琴似屯田兵屋の建設などに、イギリスで見た大農場の共同開墾をすべきと主張した。しかし村橋の考えはことごとく、拒否された。
明治8(1875)年麦酒醸造所試験場を東京に建設することが、すでに黒田清隆長官の発議で決められていた。
無駄なことをするものだ、と村橋は思った。勧業、勧農が目的の麦酒醸造なら最初から北海道に建設すべきだ。それが出費を省くというものだ。
麦酒醸造に必要な、冷涼な気候、ホップや大麦を栽培する広い土地、伏流水が湧き出ている豊富な水と氷。それらすべてが、札幌にはあった。村橋は、麦酒醸造所は最初から札幌に建設すべきと、上申した。
黒田の意見が覆されて、麦酒醸造所は、葡萄酒醸造所と製糸所と共に、札幌に建設されることが決定した。村橋は工場の建設に、心血を注いだ。必ず成功してみせるという堅い決意は、幕末以来の下級士族の醜い権力争いに対する批判であり、上級士族である自分にたいする冷遇への、抗議からでもあった。
この頃から、開拓使の官宅の払い下げが相次いだ。私利私欲に満ちた官員達が、札幌の発展を見込んだ投資のために、土地を奪い合っていた。士族としての誇りを忘れた同郷人の姿に、村橋は怒り、失望と嫌悪を募らせた。
おれが精魂こめている三建築も、やがてはおれの知らないところで画策され、官の手を離れ、誰とも知れぬ者に払い下げられるだろう。麦酒醸造所、葡萄酒醸造所というように矢継ぎ早に新しいものが生み出されても、いつかは自分達の手から離れていく。それが勧業という拓植政策だ―――。
明治9(1876)年9月、苦労した工場群は完成した。しかし、いずれ誰かの手に渡ってゆく未来が、村橋には予見できた。
札幌での麦酒醸造が軌道にのってきた明治14(1881)年、村橋は開拓使に辞表を出し、忽然と姿を消した。開拓使が廃止される一年前であった。
それから11年後、明治25(1892)年9月、神戸郊外の路上で一人の行き倒れが発見された。鹿児島藩士、村橋久成と言い残し、息を引き取った。この間の消息は、不明である。
『残響』の作者である田中和夫は、図書館で『北海道史人名辞典』を見ているうちに、村橋久成の記述に目がとまり、興味を持って調べ始めた。執筆に5年の歳月をかけ、取材ノートは500冊に及ぶ。幕末、維新、明治と激動の時代を侍の魂を持って生きた村橋は、100年振りに甦ることができた。村橋が北海道に残した産業の礎は、15カ所もあった。その功績の第一は、札幌に麦酒醸造所を建てたことであろう。
道庁の赤レンガから東へ真っ直ぐに延びる北3条通は、「札幌通」とか「開拓使通」と呼ばれていた。通りの両側には開拓使の建物が建ち並び、創成川を渡ると、製糸所、麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、と並んでいた。村橋が亡くなった同じ明治25(1892)年、麦酒醸造所はレンガ作りの工場に建て替えられて、今、札幌ファクトリーに引き継がれている。札幌麦酒醸造所開業式から130年を経て、平成17(2005)年9月、知事公館の前庭に村橋の胸像が建立された。