小説家の筆が描いたまち。書かれた時代と現在。土地の風土と作家の視座。
「名作」の舞台は、その地を歩く者の眼前に何かを立ちのぼらせるのだろうか。
*この連載は、作家の合田一道氏が主宰するノンフィクション作家養成教室「一道塾」(道新文化センター)が担当しています。
第41回

新十津川物語(川村たかし)

あらすじ

明治22(1889)年8月、奈良県十津川村は前代未聞の集中豪雨に見舞われる。三日三晩降り続いた雨は山津波を引き起こし、村は崩壊した。村人の三分の一が家屋敷を失い、新天地を求めて北海道への開拓移住を決めた。両親を失い姉は嫁いで行った、津田フキ9歳はたった一人の身内である兄照吉17歳と共に、十津川村を後に北へ向かう旅人となる。

開拓の大地に生きる

山崎由紀子/一道塾塾生

雪解けを待ち一冬を空知太(滝川)で過ごしている間にも、北海道の開拓の厳しさを知った十津川村移民たちの中から、逃げ出して行く者が増えていった。
やがて初夏の日ざしが明るく森に広がった翌年6月、待ちかねた入植の日が来た。割り当て地は、新十津川村と名づけられた。
17才になったフキは幼馴染の豊太郎に嫁入りする日、自分は広い開拓地に根をはやして生きていけるのだろうかと心細くなり、原生林にそびえるタモの木を見上げる。

雪の原っぱに、何十年何百年と立ちつづけてきたタモの巨木に、彼女は不意に感動していた。吹雪の冬は葉を落として、ただじっと耐えている。そのかわり、夏には燃えつきようとでもするかのように、黒ぐろと葉を茂らせる。我慢することの力強さが、すっくとのびた裸の大木に満ちていた。

フキは逃げても行くところは、どこにも無いことを知る。開拓に来た者は、自分で土地を切り拓き、自分の家族を守っていく他は無いのだ。
開拓は災害との戦いである。冷害、暴風雪、山火事、繰り返す石狩川の氾濫に洪水。やっと実った作物を夜盗虫にわずか一晩で食い荒らされてしまい、一年分の食料を失ってしまった。自然災害だけではない、人災にも出会う。親戚の保証人となり、苦労して開拓した田畑をかたに取られて、さらに奥地の原野へと移って行かなければならなかった。その都度繰り返される苦難に、フキは勇敢に立ち向かってゆくのだ。

夫の豊太郎は日露戦争に出征し病人となって戻ってきたが、亡くなる。関東大震災が起こり、やがて戦争の時代となる。フキの子供たちも出征して時代の渦の中に巻き込まれてゆく。捨て子を拾ってきて育てた次男の豊彦は、誰よりも優秀で東大にまで進んだ。しかし特高警察の拷問を受け、虐殺されてしまう。
数々の苦労が襲い掛かるが、フキは明るくいつも前向きに乗り越えてゆく。フキには、故郷の十津川村を出る時に姉と交わした約束があった。姉の言葉が蘇る。

「なんぼうつらいことがあっても、泣かんとこうな。そのうちにきっとええことがあるって。泣くのはええことがあったとき、な。指切りや。」
「うん。」
フキは力をこめて、からみあわせた指をゆさぶった。

姉とは別れて以来、一度も会わないでしまう。しかし、心の中に姉との約束が生きていていつもフキを励まして守ってくれた。

昭和35(1960)年、新十津川村は開村70年を迎えた。その祝賀会で、まもなく80才を迎えるフキは開拓功労者として表彰される。フキにとっての70年は、子、孫、曾孫たちの沢山の子供たちを育てたことであった。フキという木から延びて成長していった子供たちは30人を超える。皆逞しく成長して、明治、大正、昭和の激動の中に生きてゆく。フキという大木は、開拓の大地にしっかりと根付いて、沢山の子供たちの人生を見守っている。

『新十津川物語』は作者の川村たかしが15年の月日をかけて、第1巻『北へ行く旅人たち』から始まり『マンサクの花』まで全10巻を完結させた。其々の巻に思いを込めた題名が付いている。気候も文化も違う北海道の開拓に立ち向かった作者の同郷人の苦難の戦いの姿を描き、主人公フキの明るい逞しい姿に希望を繋いだ。フキたちが開拓した新十津川は豊かな米どころとなり、見渡す限りの田と畑が広がる。
『新十津川物語』はNHKのドラマに取り上げられて、全国的に大反響を呼んだ。ふるさと公園には「新十津川物語記念館」が建立されて、川村の執筆の姿やテレビドラマのスチール写真が展示され、ドラマの放映もされている。 

奈良県十津川村の開拓民が最初に入植したトック原野。松浦武四郎の碑がある

新十津川物語記念館の外観

記念館内の川村たかしの世界


川村たかし(かわむら・たかし)

1931(昭和6)年奈良県生まれ。日本ペンクラブ、日本文芸家協会、日本児童文学者協会などの会員。『新十津川物語』全10巻は、路傍の石文学賞、日本児童文学者協会賞などを受賞。
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