1960(昭和35)年。知床にはじめて観光船が就航したこの年に、羅臼を舞台にした映画『地の涯に生きるもの』が公開された。原作は、自然や動物をテーマに多くの作品を残した戸川幸夫(1912〜2004)。新聞社を退社して作家活動に専念するようになった戸川は、昭和30年代には知床をはじめ下北や奥羽の山奥などで生きる人々のルポに精力的に取り組んだ。『知床半島』(1961年)には、やがて映画に結ばれていく作家と知床との出逢いが濃密に綴られている。
映画の撮影が終わって主演の森繁久弥が現地の人々に感謝を込めて贈った『さらばラウスよ』が、のちに『知床旅情』と呼ばれる歌だ。知床羅臼町観光協会の中村絵美さんは、知床の存在が全国に知られるようになったのには戸川の仕事が大きくあずかっているはずだという。
そして東京オリンピックが開かれた1964(昭和39)年。知床が22番目の国立公園に指定された。北海道内では、阿寒、大雪山、支笏洞爺につづく4番目。保護の規制が最も厳しい特別保護地区が面積の半分以上を占めたのは、日本の国立公園の中ではじめてのことだった。一般人が自由に海外旅行に出かけられるようになったのもこの年で、また日本がOECD(経済協力開発機構)に加盟したのも64年。敗戦の復興から経済成長への階段を上っていた日本は、この時点でついに先進国の仲間入りを果たしたのだった。
国立公園の指定以降、知床への注目はいっそう増した。1960年代末には、羅臼や知床の玄関口である斜里を訪れる観光客は地元に貴重な外貨を落としていくようになる。そして1971(昭和46)年、加藤登紀子がカバーした『知床旅情』が大ヒット。「日本最後の秘境」というキャッチフレーズとともに、知床ブームが起こった。大きなキスリング(横長ザック)を背負って、全国から若者たちが知床をめざした。バス乗り場や列車の通路などを窮屈そうに横歩きするところから名づけられた、「カニ族」だ。
翌72年は札幌で冬季オリンピックが開かれ、北海道の観光は国際化の時代に入る。北海道ではじめての高速道路、道央自動車が北広島・千歳間で開通した。
全国では、田中角栄首相が主導する列島改造ブーム。世の中のマインドは開発最優先にセットされ、各地で土地や建設への投機が熱を帯びていく。しかし一方でおなじころ、イタリアのシンクタンク「ローマクラブ」が「成長の限界」と題したレポートを発表。地球は有限であり、このままの成長ペースだと人類は深刻な環境問題に直面すると警告を発していた。国連ではじめて環境問題が議論されたのもこのころだ。
知床半島の北側半分(南側が羅臼町)にあたる斜里町では、すでに1970年には、地域研究の軸になる町立しれとこ資料館が立ち上がっていた。幅広く深い活動で知られる現在の町立知床博物館(1978年開館)の前身だ。72年には斜里町自然保護条例が制定され、はやくもこの時点でのちの国立公園内の国有林伐採反対運動(1980年代後半)や、知床の世界自然遺産登録(2005年)への土台がつくられていたことがわかる。
目先の経済に一喜一憂するばかりでなく、豊かで多様な自然こそが、時代のどんな変化にもゆるがない価値であり、地域最大のリソースだと確信する人々が行動を開始していた。
北方の大自然とアイヌ文化。これは現在につながる北海道観光ならではのコンテンツだろう。北海道観光が新たなフェイズに入ったこのころ、ほかの地域に目をやれば、阿寒湖畔のアイヌコタンや旭川、二風谷、白老などでは地元のアイヌの人々を中心とするアイヌ工芸が大きく発展して、地域の有力産業になっていた。
菓子の分野の北海道みやげにも新しい渦が起こっていた。上磯(現・北斗市)のトラピスト修道院では、1959(昭和34)年に「トラピストバター飴」を発売していた。さらに60年代末に発売された六花亭の「ホワイトチョコレート」が、口コミの高評価に反応した雑誌などの影響で70年代に入って突然人気に火がついた。76年には、現在の北海道みやげの代名詞ともいえる石屋製菓の「白い恋人」が発売されて爆発的な好評を博す。同様の定番、六花亭の「マルセイバターサンド」の発売も77年だ。これは十勝開拓の礎となった晩成社が作っていたバター(マルセイバター)がモチーフになった。
またこのころの鉄道時刻表に載っている土産広告では、菓子類のほかに、道南の松前漬、イカや昆布の加工品、札幌のアイヌ工芸品やサケ皮工芸品、日高のヒスイやメノウ、コンブ、苫小牧のスモークサーモン(王子スモークサーモン)などが目につく。
80年代に入ると、カニ族につづいてミツバチ族が北海道にやってきた。日本も豊かになり、今度は鉄道ではなくバイクで旅をする若者たちだ。消費とは縁が浅かったが、夏に道内各地をまわり、秋になると道東のサケの加工場で住み込みのバイト(シャケバイ)、そして冬にはニセコに流れてスキー場でまた住み込みで働く、といった若い男女も少なくなかった。彼らの中からやがてニセコに住みつき、ペンションオーナーとなるカップルもでてくる。移民の島北海道の観光史で特筆しておきたい人々だ。
さらに近年では、ニセコの雪に魅せられた海外からの移住者も重なってきている。