北海道みやげの200年~その4

山﨑幸政・ときえさんの「アイヌのお土産」コレクションから

土産をめぐる人々の思いやふるまいは、たくさんの出来事の渦を作り出す。北海道みやげとしてのアイヌ工芸のはじまりはどのようなものだっただろう。連載の最後に、北海道観光のあゆみという、異文化が出会うコンタクトゾーンの創造力を考えてみたい。
谷口雅春-text 伊田行孝-photo

観光というスリリングな磁場で

もっとも北海道らしい北海道みやげはなにかと問われれば、多くの人は今もまずアイヌの工芸品に指を折るだろう。木彫り熊に代表される木工品や織物、刺繍などだ。初回でふれたようにアイヌの工芸品は当初、幕吏(江戸幕府の役人)たちによって「発見」され発展していった。工芸品を求める人と作り手のやりとりが、製作に影響を与えていったことがわかっている。
例えばオランダ商館医官として長崎に赴任したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796〜1866)は、本国からの命で日本列島の自然や歴史文化に関する膨大な資料を集めたが、そこにも少なくないアイヌ工芸が含まれていた。シーボルトはアイヌに大きな関心を持っていたし、次男のハインリッヒ・フォン・シーボルト(1854〜1908)は、1878(明治11年)に実際に北海道に渡って報告を残している(『小シーボルト蝦夷見聞記』)。

ヨーロッパ人は16世紀にはすでにアイヌ民族の存在を知っていたらしい。18世紀の啓蒙思想の時代になると、彼らは薄汚れてしまったヨーロッパ文明を覚醒させる「高貴な野蛮人」の一グループに見立てられたという。近代に至るとアイヌはコーカソイド(白色人種)だという説も注目された。東の果てに、自分たちと同じルーツをもつ希少な民族がいる、というわけだ(説は現在では否定されている)。だから明治期にはハインリッヒ・フォン・シーボルトのように多くの西洋人がアイヌに興味を抱いた。英国のジョン・バチェラー(聖公会宣教師)やニール・ゴードン・マンロー(医師・人類学者)らは北海道でアイヌの研究や生活支援に尽力するが、このふたりなどはそうした動機の一脈に根ざしながらも長期にわたって北海道に根をおろした、特筆すべき人だったといえるだろう。

北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授の山﨑幸治さんは、興味深いことにシーボルトのアイヌコレクション(オランダ・ライデン国立民族学博物館)は、お土産的な特徴を強く持ったものだという。「手拭い掛けや筆立て、筆軸、あるいは茶道具など、あきらかに第三者の和人に渡すことを前提にしたものが多いのです」

19世紀の蝦夷地の「場所」(松前藩とアイヌの交易所、幕府直轄の時代は「会所」)で、マキリ(小刀)などの生活具やイクパスイ(捧酒箸)などの儀礼具に興味をもった和人が米などと引き換えにそれらを手に入れる。江戸ではさぞや羨望の的となっただろう。やがてこういう装身具がほしいと希望を出したり、アイヌ側も本来の工芸に加えて、こうすれば和人が喜ぶだろうといったコミュニケーションが深まっていく。

木彫り熊は、幕末にはまだ存在していない。これはもともと、道南の八雲に士族授産を目的に徳川農場を開いた徳川義親(尾張徳川家第19代当主)が、ベルン(スイス)の農民工芸を参考に、小作農民たちの冬の副業にと取り入れたもの。1923(大正13)年には第1回八雲農村美術工芸品評会が開かれた。ほぼ同じころ旭川でも巧みな木工技術をもつアイヌの人々などにより木彫り熊が作られはじめた。そして伝統の技術や林業のぶ厚い裾野があり、さらにはすぐれたプロデュースや商社の機能があった旭川を中心に、アイヌによる木彫り熊づくりが広がっていく。八雲の熊彫りにもアイヌが関わっていた可能性があるというが、北海道みやげをめぐる土地と人間の刺激的な応答には興味が尽きない。

阿寒湖アイヌシアター「イコ」で開催された「昭和レトロ アイヌのお土産大集合展」

去る10月末まで、阿寒湖畔アイヌコタンで、「昭和レトロ アイヌのお土産大集合展」という展覧会が開かれていた。これは1960〜70年代のアイヌ工芸品を中心に、白老や阿寒、旭川など古くからアイヌコタンがあった土地で作られていた膨大な量の「アイヌのお土産」を展示したもので、コレクターは、北九州に暮らす山﨑さんのご両親。福岡ののみの市などで2000年くらいから集めたものだという。つまりかつて北海道で求められたアイヌのお土産は、その旅の徴(しるし)を刻まれたまま、いまなお長い旅をつづけているのだ。

観光とアイヌ民族をめぐっては、観光産業によってアイヌの伝統文化が商品化され本質を失った、といった議論がある。その一面もあるだろうが、シーボルトの時代の和人とアイヌのやりとりからも想像できるように、世界はそうシンプルにはできあがっていない。観光が作った経済や生活環境によって、アイヌ民族が主体的に文化の軸を守ることができたのも事実だ。

山﨑さんは、いま第一線のアイヌ工芸作家が腕を磨いたのは、木彫り熊が全国に広がっていった昭和30〜50年代だったことを指摘する。卓越した写実の精神で木工工芸に新たな地平を拓いた阿寒の藤戸竹喜(1934〜)さんは、昭和30年には二十歳を超えたばかりの俊英だった。藤戸さんの店、阿寒湖アイヌコタンの「熊の家」では、いま次の代の藤戸康平さんが制作に取り組んでいる。

藤戸康平さん製作のアイヌ文様が施された髪留め(5400円)

作家の個性をいっそう味わいたい現代のアイヌ工芸。中央にターコイズをあしらった藤戸康平さんの髪留め(税別5800円)

藤戸康平さん

藤戸康平さん

一方で、地域産業としてのアイヌ工芸品の世界では、制作者には和人も少なくなかった。ひとつの強い主題をめぐって森羅万象は混じり合い触発しあう。山﨑さんは、「昭和の北海道観光のブームとそこで作られた品々には、今とこれからのアイヌ文化を考える豊かなヒントが詰まっているのです」と言う。

話を現代のお土産に寄せよう。
いま新たなお土産の開発は、地域のさまざまな取り組みの中でとても有効な切り口になる。そう力説するのは、札幌国際大学観光学部准教授の千葉里美さん(観光学)だ。「お土産づくりは地域の顔づくりです。そして学びの現場から見れば、お土産は、地域の食材や歴史文化などを知るための格好の入り口になる。これからの北海道のお土産には、さらにたくさんの可能性があると思います」

自分たちが暮らす土地がどんな土地でどのようなリソースがあり、よそとはちがうどんな個性を持っているのか。そのことをまちの内側から、そして外から注がれるまなざしを意識しながら考えていく——。すなわちお土産の開発は、地域が魅力的な自画像を描こうとするモノづくりにほかならない。当然、マーケティングから加工技術、デザインなど、幅広い分野のノウハウが求められるだろう。千葉さんは、お土産関連産業はビジネスの希望になり得るし、地域に新たな雇用を生む重要な役割を担っていると言う。いま生まれようとしているお土産は、地域が外貨をかせぐビジネスの最前線であると同時に、大学などが連携を志向している、地域学実践のフロンティアでもあるのだ。

モノとして消費されるお土産には、その土産を生んだ、モノや記号には還元できない裾野がある。そんな背景や文脈にじかにふれながら、そのことの徴(しるし)として土産を楽しむのが、いまの北海道観光だ。観光というスリリングで複雑な磁場には、いつの時代もモノづくりをいきいきと駆動させる力が満ちている。日本列島の北方域で固有の風土と歴史をもち、そんな「場の力」が特段に強い北海道のお土産に注目してほしい。

新千歳空港は現代北海道のお土産の最前線

新千歳空港は現代北海道のお土産の最前線

※(1)〜(4)主な参考文献

『アイヌ史資料集 第六巻』(北海道出版企画センター)
『村垣淡路守公務日記』大日本古文書 幕末外国関係文書(東京大学史料編纂所)
『コレクション・モダン都市文化 第88巻 札幌の都市空間』押野武志 編(ゆまに書房)
「観光の北海道展パンフレット」1937 東京鉄道局
『矢島さとしのまるごと北海道みやげの歴史』矢島睿(中西出版)
『なにこれ!? 北海道学』池田貴夫(北海道新聞社)
『木と生きる-アイヌのくらしと木の造形』公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構
『旭川・アイヌ民族の近現代史』金倉義慧(高文研)
「アイヌ史研究におけるモノと文献」山﨑幸治(北海道東北史研究2006.12)

この記事をシェアする
感想をメールする
ENGLISH