北海道ならではの観光を大きく駆動させたのは、やはり雪だった。
1928(昭和3)年1月、青森県の大鰐で第1回全日本学生スキー選手権大会が開かれ、北海道大学が早稲田大学や法政大学を押さえて総合優勝を果たす。大会に臨席した秩父宮(大正天皇の第二皇子)は、北大スキー部マネージャーの西野睦夫の世話を受けたが、そのとき北海道のスキー環境に強い関心をもった。宮は、英国留学時代にヨーロッパの山とスキーに広く親しんでいたのだ。2月には第2回冬季オリンピックがスイスのサンモリッツ市で開かれた。日本がはじめて選手団を送った冬季五輪だ。そして2月末には秩父宮が来道。札幌の三角山や手稲、そしてニセコに入り、大野精七教授ら北大スキー部の案内で山とスキーを楽しんだ。新聞などでニセコが「東洋のサンモリッツ」とうたわれるようになるのは、この山行がきっかけだった(のちの1964年、この舞台となった倶知安町は、雪を縁にサンモリッツ市と姉妹都市の提携を結んだ)。
宮は大野教授らに、「日本で冬のオリンピックを開催するとしたら札幌しかない。まず大きなシャンツェと洋式のホテルが必要だ」と助言する。そこから大倉山シャンツェ(1932年竣工)と札幌グランドホテル(1934年開業)が誕生していくのは、札幌史における名高い挿話だ。
近代の開拓がはじまって60余年。このころ、観光が生み出した北海道みやげが本格的に地域経済の舞台に上がってきた。1931(昭和6)年、札幌の北海道物産館で北海道庁主催の北海道土産品展覧会が開かれた。復刻された展覧会会誌(『コレクション・モダン都市文化 第88巻 札幌の都市空間』押野武志編)の開催趣旨にはこんな一節がある。
「広く北海道のみやげ品界を見るとき、そこにはなお多くの改善点を見いだすのである。と同時に、北海道を表徴するに足る独創的みやげ品の製出を促さざるを得ぬ」(新仮名遣いに改め)。
展覧会では、道内各地域の有力みやげ品が一堂に会して、即売も行われた。「銘菓」「水産加工品」「農産加工品」「木工民芸品」の4グループ。これは現代でもかわらない北海道みやげの代表的なジャンルとなっている。
代表的な品をあげると、札幌ではバターや粉ミルク、木彫アイヌ細工。旭川では豆菓子、アイヌ細工、ポマード。函館では昆布やアワビ粕漬け、河西支庁(現・十勝支庁)は十勝石の加工品など。
また北海道会議事堂を舞台に批評や協議会(シンポジウム)も開催された。議事録には、北海道の土産は府県のそれとは一歩進んだ性質や使命を持つべきで、「北海道そのものの紹介宣伝と物産販路の拡張に対する尖端を往くべき重要使命を持っている」とある。
また旭川新聞社札幌支局長のこんな発言にも注目だ。曰く、昨今木彫り熊がさかんに作られているが、北海道の拓殖の宣伝には逆効果だ。その高度な技術を、恐ろしい動物が跋扈(ばっこ)する土地を意味するクマではなく、愛らしいシカ彫りにしたほうが良い。アイヌには義経の伝説にちなむものなど、もう少し芸術性の高いものが望まれる。つまり木彫り熊が発信するのは負のイメージにすぎない、というわけだ。
シンポジウムのまとめの章にはこんなフレーズが踊る。
「特産を本当に生かさねばなるまい。土地、土地の特点をみやげものに託してそれ北海道を謳(うた)はねばなるまい」
1937(昭和12)年には、東京の伊勢丹で「観光の北海道展」という催しが開かれた。東京鉄道局が仕掛けた大規模な旅行プロモーションで、会場にはチセ(アイヌの家屋)が建てられ、アイヌによる木工の実演販売が行われた。さらに摩周湖や大雪山、トラピスト修道院などのパノラマが作られ、写真の展示と物産販売もあった。「北海道をどういうふうに見物したらよいか」というキャッチコピーがついたパンフレットを開くと、「東京から札幌へは汽車汽船を通じて二十四時間きりかかりません」などとある。札幌の人口は当時20万人あまり(現・約196万人)。「アケーシアの並木は首都札幌に見る名物の一つ」といったフレーズが踊っている。こうした一連のプロモーションのハイライトとして計画されたのが、秩父宮が勧めたものの戦争のために結局は幻に終わった、1940(昭和15)年の冬季札幌オリンピックだった。
観光は、平和がもたらしてくれるかけがえのない恩賞だ。日本人がふたたび観光を取り戻すには、長く苛烈な戦争の時代をくぐり抜けなければならなかった。1945(昭和20)年夏に戦争がおわり、阿寒湖畔では昭和20年代末からアイヌの人々の工芸のコミュニティが生まれて製作に取り組んでいた。1959(昭和34)年には、前田一歩園の3代園主前田光子が、湖畔の土地をアイヌの工芸家たちに無償提供。中央の広場を工房住居が囲む現在のアイヌコタンが生まれた。前田一歩園は、薩摩出身の前田正名が国有地の払い下げを受けて1906(明治39)年に起こした事業体で、やがて阿寒湖を取り囲む広大な一帯の自然保護を事業の柱にしていく(現・前田一歩園財団)。
阿寒のアイヌコタンの昭和30年代は、観光ブームを背景に、砂澤ビッキ、床ヌプリ、藤戸竹喜など若さと才能にあふれた新進作家たちによって彩られていく。