1回目で触れた、半世紀近くにわたり6期に区分できるバードの海外の旅の歴程にあって、第3期の最初の旅である1878(明治11)年の日本の旅は、最大の転換点になりました。それまでキリスト教世界に展開していた彼女の旅の世界が、これ以後広大なアジアを主とする非キリスト教世界に展開していったのです。そしてその先に最高の女性旅行家と評価される栄誉が待っていたのです。少なくとも結果として、日本の旅は旅行家としてのバードの旅の生涯における最重要の旅となったのです。
この日本の旅は英国公使パークスが立案し、彼の依頼にイザベラが使命感に燃えて応え、以前の旅で培ってきたもののすべてを注ぎ込み、時に命を落とす危険さえあった厳しい旅を通して本当の日本を描き欧米に伝える旅でした。江戸から明治へと大きな転換を図った日本の、特に海外からの目が届かない地域の現状を見聞し、キリスト教の普及の可能性も念頭に置いていた旅でもありました。好奇心にまかせた個人的な旅であり、書いたものは「気まぐれな採集記録にすぎない」(赤坂憲雄責任編集『北の旅学 やまがた』小学館、2004)という見解は確かな根拠があってのことなどではなく、旅の本質とバードの旅行家としての真の姿の無理解に基づく明白な誤りであり、読者と社会に誤った理解を定着させました。実質的には公式の報告書でした(しかも、事実を羅列するだけの平板な報告書ではなく、率直な思いや考えを的確に織り交ぜながらの、臨場感あふれる、一般の人が読んで楽しい魅力的な報告書でした)。
ですから、その旅には、「公式には北海道という」(金坂清則訳注『完訳日本奥地紀行3―北海道・アイヌの世界』平凡社、2012、p.21、以下『完訳3』)と明記しながらも、彼女自身はほとんどの場合、蝦夷と記した北海道のアイヌの世界への旅だけでなく、関西・伊勢神宮周遊の旅もありました。この旅なくして本当の日本、古き日本は語れないからです。否、それだけではなく、英国公使館を拠点とした東京滞在も、実は日本の旅の不可欠な一部だったのです(旅の準備や旅先で書いた草稿の修正整理、また東京に関する濃密な記述など、パークスやチェンバレン、シーボルト等の援助を得つつ行った東京滞在中の営為なくしては、書物はでき上らなかったのですから)。ところが、日本の読者や専門家だけでなく、世界中の読者や専門家さえも、バードの日本の旅は北海道のアイヌの世界への旅であり、その目的地だった平取を出て東京に戻った旅が、日本の旅の復路だったと思ってきたのです。
それは、簡略本では北海道の旅の後に行った関西・伊勢神宮周遊の旅が除かれており、二巻本の歴史がわずか5年にすぎず、1885年以後は簡略本がこれにとって代わり、復刻本もほとんどこれを復刻してきたからです。ではなぜ、この本が高い評価を得、ベストセラーになったにも拘らず、二巻本を絶版にして簡略本を出したのかといえば、出版社主ジョン・マレー三世が、その分量を半減させ、彼女の名を一躍有名にしたハワイの旅行記や、これまたベストセラーになったロッキー山脈の旅行記のような女性らしい「旅と冒険の物語」として出版することによって新しい読者層を開拓したかったからです(※)。
彼女が旅した距離は私の研究では4,500キロ以上に及びました。当時、一般の外国人が自由に移動できる範囲が横浜・神戸・長崎・函館・新潟という5つの開港場と、東京と大阪という2つの開市場(かいしじょう)から半径わずか40キロに限られていた時代にです! 旅行記の長い副題中のinterior(インテリア)とは「外国人遊歩区域」と言われたこの範囲よりも内陸側つまりそれより奥の意味であり、日本では「内地」と言われていました。開国以来のことです。バードはこの内地を旅したことを明記しています。ですが、私以前の訳者はこの必須の原語の意味がわからず、旅行記の内容を的確に示す副題そのものを、不可欠であるにも拘らず、訳出しませんでした。そしてバードの日本の旅行記を扱う研究者も、本来なら原著を読んで考えねばならないのにそうせず、問題のある高梨本に依拠したこともあって、この重要な事実を指摘せず、知らぬままに論を敷衍し、上記のように、旅の誤解の定着に与ったのです。
バードの旅行記の原題は『日本奥地紀行』ではありません! 私が、『完訳』全4巻の各巻や『新訳』の冒頭「凡例」の最初で、また1回目で紹介した『新書』の第1章でも明記したように、『日本の未踏の地―蝦夷の先住民および日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』です(主題はパークスの創案)。原文で記しますと、”Unbeaten Tracks in Japan: An Account of Travels in the Interior Including Visits to the Aborigines of Yezo and the Shrines of Nikkō and Isé"となります。
もちろん、表題は正確さだけで決められるべきものではありませんし、interiorという意味での内地がその後なくなる一方、日清戦争後に領土となった地域=外地に対する地域という意味の言葉として法律で定義される(大正7年)ことによって忘れられてしまい、北海道や沖縄から本州を指す言葉としても使われてきたことからしますと、高梨氏がinteriorという原語の意味がわからず漠然とした奥地のことだとイメージしてこの耳慣れた言葉を用いたとしても、『日本奥地紀行』という表題にしたのは、必ずしも悪くありません。
私が表題を『完訳 日本奥地紀行』や『新訳 日本奥地紀行』としたのも、このことと、高梨健吉訳『日本奥地紀行』(以下高梨本)がすでに社会に定着している事実を踏まえたものです。それを生かし、かつ『完訳』や『新訳』という言葉を冠すことによって高梨本と区別できると考えたからです。『完訳』『新訳』という2つの言葉は表題の不可欠な一部なのです。ところが、バードの日本の旅行記が、ほとんどの場合「バードの『日本奥地紀行』」というように紹介されることは、そこから想起されるのが高梨本であり、それが種々の問題を抱えものであることが今や明らかであるが故に、望ましいことではありません。簡略本の訳書としては、平凡社の柱石である叢書「東洋文庫」の一冊(240)である高梨本と同じ東洋文庫の840として刊行された私の『新訳 日本奥地紀行』がありますが、後者の優位性は、訳文の正確さや原著画像の忠実な掲載と鮮明さその他どの点から見ても明白です。
「東洋文庫」創刊50周年の2013 年に刊行された本書の帯に「バードの原著簡略本の40年ぶりの待望久しい新訳、いよいよ登場。明治日本を旅した英国人女性のこまやかで鋭い観察力と描写が、当時の日本の習俗、気風、風景を伝える、旅と冒険の本!」と記してその意義を高らかに謳う文言は、その何よりの証です。出版社としての喜びが明白です。ただ、紹介する際に「バードの『完訳 日本奥地紀行』」や「バードの『新訳 日本奥地紀行』」という表記はそぐいませんから、「バードの日本の旅行記」とか、「バードの『日本の未踏の地』(原題)」と記し、できればその後に正式の書名を括弧付きで記す紹介の定着が望まれるゆえんです。
とりわけ旅の研究に傑出した業績のあった宮本常一さんが高梨本をテキストとして読む会で開陳した考えは、初め未来社から『旅人たちの歴史3 古川古松軒/イサベラ・バード』と題して1984年に公刊された書物の後半で世に出、高梨本が平凡社ライブラリーに入った翌々年(2002)には平凡社ライブラリーOff シリーズの魁を飾り、山崎禅雄氏の解説に加えて佐野眞一氏の解説が入り、高梨本を味わう格好の手引き書『イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む』となり、今に至っています。ですが、山崎氏や佐野氏が賞賛するように、優れた民俗学者ならではの卓見が随所に見える一方で、著名な翻訳者高梨氏が自国のことを訳す時に誤ることはないという理解(思い込み)によるのでしょうが、例えば「屋根は乱雑であったが、水瓜をたくさん栽培していて、壁に這わせているので屋根まで隠れていることが多かった」「という短い一文」に着目し、「西瓜を仙台や盛岡の人たちが食べるようになったのは、東北本線が通ずるようになってから(仙台・盛岡までの開通はそれぞれ明治20、同23年:金坂)」なのに、バードは「日本海岸の方ではすでにこの時期に西瓜が作られていた」ことを教えてくれる、と評価します。しかしこのような高梨訳は明らかに誤りです。バードが黒石から青森に至る道筋で見たのは、西瓜などではなく、糸瓜(へちま)です。彼女の原文は「屋根もいいかげんなものだったが、そのいいかげんさは、伸び放題の糸瓜(へちま)の蔓(つる)で覆い隠されている」(金坂清則訳注『完訳 日本奥地紀行2 新潟・山形・秋田・青森』平凡社、2012、p.243)と訳されるべきなのです。 本論の冒頭で紹介した、沢庵と解すべきところを高梨訳に依拠して大根と解し、これが主食物だったと解釈して論を展開しているのと同様であり、このような例は少なくありません。西瓜の蔓が屋根を覆い隠すなどというあり得ないことを宮本さんでさえも誤訳だと思わずに信じ、学識を踏まえて敷衍し、「屋根まで隠す水瓜(すいか)のつる」という小見出しまで付けるのです。正しく翻訳することはさほどに重要なことなのです。というわけで、次回以降は『完訳』と『新書』に基づいて記していきます。
※この狙い自体は大成功でした。よく売れ、本論の冒頭でも記したように版を重ねたのですから。ただ、マレーの要請に応えはしたものの、バード自身は、日本の旅行記の本来のものである二巻本を評価していましたから、このNew Edition (以下『新版』)を1900年にジョージ・ニューンズ社から出した時には、この二巻本をベースとしました。『新版』を出したのは、1894-97年の極東の旅に関わって、その旅のためのベースキャンプとして都合1年弱滞在し、大好きだった日本についても一書を出したいと考えたからであり、旅行家として功成り名を遂げた自分にとってのこの二巻本の重要性を認識し、これまで書いた多数の旅行記の最後を飾るものとして『新版』を残しておきたかったからだと私は考えています。
この『新版』は、『新版』のための序文のほかに極東の旅における新しい表現手段として活用した写真を14点加え、明らかに不要となった部分だけを省いたものでした。一巻本ですが、3種の原著を並べた下の写真からもわかるように、二巻本に比べて判型が大きく、また活字の組み方ももっとコンパクトで、料紙にも写真を含む図版を重視して薄手のアート紙を用い、頁数は483頁ですが、ボリューム的には二巻本と遜色ありません。
表題は、上記した二巻本の副題の冒頭の語がAccount からRecordに変えられているだけですが、この変更は「新版」には半ば公式の「報告書」という元々の意味合いがなくなったことによると考えられ、元は半ば公式の報告書だったという私の見解の傍証になります。
また最初に訪れた1878年以降さまざまな変化・発展は見られるけれども、未踏の地における人々の暮らしに生じた変化はごくわずかであり、1880年に出した旅の記録が今も今日の姿を正しく伝えているという、やや強引な理由の下に『新版』を、出版社を替えてまでして出すという事情もあって、表紙には富士山と花鳥風月をモチーフにして、本論の冒頭に掲げた2種類の原著の表紙との連続性を打ち出しています。やや強引な理由を掲げてまでして、日本の旅行記を旅の生涯の最後の書物として残しておきたかったというバードの心情を慮る時、一層、本当の日本を描くことに全力を注いだバードを取り巻く日本の旅の豊穣なる世界が読者の前に立ち上ってくるように私には思われます。この『新版』については金坂清則編訳『イザベラ・バード 極東の旅2』平凡社、2005を参照ください。
右の写真は、3種の原著の右端(ジョージ・ニューンズ社版)を拡大。富士山がはっきりと確認できる。*無断複製転載禁止
富士山へのこだわりについては、イザベラ・バードとその日本の旅、旅行記に関する従来のイメージを一変させた『新書』において、最後を飾る形で指摘した記述(pp.261-63)-科学的類推―を参照。イザベラとの対話を常に重ねながら彼女の旅と旅行記を科学し、翻訳をその根幹をなすものとして行ってきた私には、ここに、ヴィクトリア時代を誠実に生きてきた旅行家イザベラ・バードの思いが集約されているように感じられます。本当のバードとその旅、旅行記の本当の姿-真実―を知ることは、決して無味乾燥な事実を積み重ねることではないことを知っていただければと思い、記します。
©Kai Fusayoshi
金坂清則(かなさか・きよのり)
1947年生まれ。地理学者、京都大学名誉教授。イザベラ・バード研究および写真展等の活動により王立地理学協会特別会員、王立スコットランド地理学協会特別会員、日英協会賞受賞。訳書・論文に『完訳 日本奥地紀行』(日本翻訳出版文化賞受賞)、『新訳 日本奥地紀行』、『イザベラ・バードと日本の旅』、写真集『ツイン・タイム・トラベル イザベラ・バードの旅の世界 In the Footsteps of Isabella Bird: Adventures in Twin Time Travel』(日本地理学会賞受賞)ほか多数。(上記書籍はいずれも平凡社)