バードが記す日付については記載どおりに受け取れないことが少なくなく、旅の行程を分析し、日を特定せねばなりません。平取を訪れた日もそうです。確定が難しいのですが、私は、彼女が佐瑠太を発ち平取に入ったのは彼女が記す8月23日ではなく24日だったと考えています。平取を発ったのは記述どおり8月27日ですので、平取滞在は3泊4日でした。
彼女は第42報の冒頭で、「アイヌについての覚書は、できれば比較的静かで快適な佐瑠太で仕上げたいと思っていたが、ベンリ[ペンリウク]の戻ってくるのが遅れたのと、[開拓使の]馬が着かなかったために、もう一日泊まっていかれたら、というアイヌの人々の好意を受け入れるほかなかった」(『完訳3』p.100)と記し、最初の第41報の冒頭でもこれに符合する記述をしていますが、私は元々3泊4日の予定だったと考えています。
第41報を書き始めたのが3日目(26日)の早朝6時で、5時間も書き続けたと記していますし、平取を最終目的地として二月半も厳しい旅を重ねてきたその平取での調査がわずか2泊3日で終わるものとして計画されていたというのも不自然です。調査の重要性からしても短すぎます。長年の研究でわかる彼女の行動・思考の様式からもそう考えます。
平取滞在に関してはもう一つ重要な事実があります。それは、平取に入る前日に、佐瑠太の宿で彼女が、平取から戻ってきたハインリッヒ・フォン・シーボルト(あの著名な大博物学者フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトの次男。大蔵省勤務)とディースバハ(フランス公使館書記官)に会っている事実です(『完訳3』pp.70-71、第40報(続) )。彼らは平取が訪れるに値する所だということを、半月前に函館の英国領事館で会っていた彼女に報告し、平取の長(おさ)ペンリウクを彼女に引き合わせるためにやってきたのです。こうすることを既に領事館で内々に打合せていたと考えられます。さらに言えば、彼らの平取滞在には何よりもバードの調査を成功に導くという役割が課されていたと考えられるのです(2人とも日本語を話せ、特にシーボルトは日本語会話に堪能でしたので、日本語のわかるアイヌと直接会話し意思の疎通を図れました)。その滞在は約1週間でしたので、ペンリウクら平取のアイヌからすれば、都合10日ほどもの間平取コタンに異邦人を受け入れることになり、十二分に長かったのです。もっと長くてもおかしくないバードの平取滞在が3泊4日だったのは、この点もあってのことだというのが私の考えです。
関連して指摘しておきたいのは、2人が6日後の8月29日にも白老でバードに会っている事実です。話が少し横道にそれますが、重要であり、今述べたことと結びつきますので補足しますと、これも偶然の出会いなどではありません。バードの平取調査が無事終わったことを確認すると共に、樽前火山(1,024m)登攀という厳しい旅を翌(30)日に控え、疲れきっていたバードに「うれしい贈り物」(『同3』p.145、第44報)をし、元気づけるためでした。
5年前のハワイの旅で4つの火山に馬で挑み、特に活火山キラウエア(1,247m)には2回も登頂して科学的観察を行い、それによって旅行記が絶賛されていた彼女にとって、樽前山登攀には、馬による火山の探険的登山を日本の旅で味わう唯一の機会という意味があったのです(本連載の3回目でも触れたのはこれが理由です)。それ故、実は最初から北海道の旅の重要目的としていたと考えられるこの日帰りの樽前山への旅は、是非とも実行し成功させねばならないものでした(さらに、馬による登攀ということで言えば、4年前のロッキー山脈の旅でロングスピーク(4,345m)を今は亡き忘れ得ぬ友マウンテン・ジムと登頂した思い出を胸に抱いて日本の旅を続けていたことも、『新書』で論じたように確実です)。ですから、「翌日[三〇日]は先に進むのを断念した。そんなところにフォン・シーボルト氏とティースバハ伯爵があわただしくやって来て、ありがたいことに一羽の鶏をくださった」(『同』p.145)おかげで、「死ぬかと思うほどへとへとに疲れたけれども、私はわずかながらあの「探険調査」以上の楽しみも味わ」(『同3』p.148)えたと記すように、探険の旅の成功にとって、前日の差し入れは重要でした。彼らの行動が単なる好意によるものでなく、バードの樽前山探険を成功させる支援行動だったことを見逃してはなりません。ここで注意を要するのは、最初の引用の一つ目の文の「先に進むのを断念した」とは、30日に室蘭を目指して幌別に向かうのを断念したということです。実際には行き先を伊藤に言わないで宿に待たせておき、アイヌ一人と共に樽前山に向かい、夕方に戻ってきたのです。
関連して言えば、通訳兼従者の面接の場を提供したヘボンが、バードの函館到着前に函館に入り、平取から函館に無事戻ってきた彼女と一緒に横浜に戻った事実(『完訳3』p.40、第39報、『同3』p.204、第49報)もまた、医師として彼女を支援するものだったと考えられるのです(彼女が記す個々の事実を繋ぎ合わせてこのようなことを見抜くことによって初めて彼女の旅の真実はわかるのです)。
話を平取に戻しますと、バードは「不意の訪問者」(『同3』p.76、第41報)としてペンリウク宅を訪れたかのように書いていますが、実際には、彼ら(シーボルトとディースバハ)は、自分たちと入れ代わりにバードが平取に入りペンリウク宅に滞在するということを、ペンリウクや長老たちに平取で既に伝えていたと考えねばなりません。彼女がペンリウク宅に入った時、彼女をもてなすシノンデ(シノンテ)らが彼女に「ベンリ(ペンリウク)はこの自分の家をあなたの家として使い、留まりたいだけ滞在してくださることを願っていると申しております、と口々に言った」(『同』p.78、第41報)と記してもいます。加えて、佐瑠太でバードがシーボルトやペンリウク本人に会えたおかげで、バードは「一両日中は戻らないけれども」「心からもてなすように」とのペンリウクの「伝言を」携えてペンリウク宅に入ることができたのです(『同』p.76、第41報)。これにも大きな意味がありました。
ペンリウクの母だけは、バードの来訪を「縁起が悪い」(『同』p.79)と考え不快感を顕にし続けました(尤もなことです)が、彼女以外のすべての人々は「自分たちの日常の生活や仕事を続けながら、礼儀正しくまた親切にもてなし」(『同』p.79)、尊敬の念を抱きつつ協力してくれました。そのおかげで彼女は3泊4日の調査を最高に実り豊かなものにできたのです。もちろん、彼女の能力や情熱・使命感、また、強い差別意識と偏見を有しつつも従者兼通訳としての務めを果たした伊藤の尽力もあってのことですが…。
バードは伊藤について「通訳として精いっぱいがんばってくれ、私の願いをよく理解し誠意をもって汲みとってくれた。本当に助かった」(『同』p.78)と深謝しています。アイヌとの会話はすべて日本語でなされ、日本語を話せるシノンテやシンリッら4人のアイヌから教わったことを伊藤が英語に訳しバードに伝えたのですから、伊藤の働きなくしてバードの調査は成り立たず、この極めて貴重な記録も生まれなかったことを忘れてはなりません。
滞在中にバードはペンリウクの家以外にもアイヌの家を訪ねたり、2人の少年の案内で沙流川を恐らくは二風谷までチプという丸木舟で遡ったり、何人もの病人の命を救ったおかげで義経神社に案内してもらえ種々見聞を深めるという経験もしました。ですが、調査の中心は、ペンリウク宅において彼女の調査のために集ってきた長老他から伊藤を介して様々なことを聞き取り家人たちの行動を観察し記録する、いわゆる参与観察調査でした。
そしてこのような調査の結果を、第41報「アイヌとの生活」、第41報(続)「アイヌのもてなし」、第42報「未開の人々の暮らし」、第42報(続)」「衣類と習俗」、第42報(続 々)「アイヌの信仰」という5つの「報(レター)」に纏めました(※※)。『完訳3』では全体で68頁もありますので気づきにくいのですが、全体は大きく2つに分かれます。最初の2つが 2日目の晩までの調査の経緯を記したものであり、後の3つは調査の成果を学術的に纏めた「覚書」です。バードの平取調査とその記録を理解する上で重要なポイントです。原著でも第41報と第41報(続)だけで24頁もあり、第42報、第42報(続)、第42報(続々)からなる「覚書」はその1.5倍、36頁に及びます。実に膨大ですし、「覚書」も調査の経緯の記述と不可分に結びつき、同様の臨場感ある論述なのです。
このことからしますと、「覚書」を東京帰還後にシーボルトやチェンバレンらの援助を得て補充修正を行ったにしても、大筋は平取で記したと考えるほかありません。「唐突だが[開拓使]が用立てた馬の用意ができているし、できることなら、今にも来そうな嵐がやってくる前にいくつもの川を渡らなければならないので、ここでこの報を終えねばならない」(『同』p.139)という第42報(続々)の最後の言葉もその証であり、調査の取り纏めも平取で書き終えたことを示します。それ故、平取滞在が元から3泊4日の予定だったと私が考える根拠の1つになります。
その分量の膨大さからしますと、読者の皆さんには本当に全部平取で書いたのだろうかという疑問が起こるでしょうが、私には納得できます。1994年にジョン・マレー社で実見した彼女の他の旅行記の手書き原稿の書きぶりを見、彼女が湧き出る言葉を訂正もせずきわめて速いスピードで綴っていく能力を身につけていたことに驚き、また彼女がいざという時に常人にはなし得ない集中力を発揮することもその後の研究で知っているからです。また、平取調査が、パークスの依頼を受けいわば責務として使命感に燃えて行っている日本の旅のクライマックスであるとバードが認識していたに違いないからです。
シーボルトは約1か月に及んだ北海道滞在中平取に最も長く約1週間滞在しました。にも拘らず、北海道に関する彼の2つの報告にはバードが書き残したような臨場感あふれる記述は皆無です。このことは、バードの平取調査の記録がいかに傑出したものであるかを雄弁に物語ります——シーボルトの報告の1つには蝦夷のアイヌに関する民族学的研究としての意義があり、他の1つにも、公式には大蔵卿大隈重信の依頼を受けての視察旅行だったことに結びつく経済地誌的記録としての意義があり(『小シーボルト蝦夷見聞記』平凡社東洋文庫)、加えて、彼が行ったアイヌ関係民族資料蒐集の意義の大きさを認めるとしても——)。
アイヌに関する彼女の認識に今日的観点からすれば差別的な一面があったことは、その記述から容易にわかります。ですが、だからと言って、赤坂憲雄氏が「差別とは何か、という問い」という表題の下に、バードの差別観という点からのみ、しかも、「バードと伊藤のどちらがより深く差別的であったのか、なかったのか」というような激しく、かつ、バードを識者として高みから論難することは間違いです。これでは、宮本さんの名著における、7章中の2章を費やしての北海道に関する含蓄に富む多面的な語りも、この名著の意義も、読者に伝わらないどころか、バードが精魂を傾けて書き残し、今や歴史資料としての価値さえもつ平取調査の記録の意義を隠蔽することになります。さらに、大著『逝きし世の面影』(葦書房、1999.平凡社、2005)で渡辺京二氏が、外国人の幕末明治期の旅行記・見聞記の中最も優れたものと評価する価値あるバードの旅行記から読者を遠ざけるという間違った働きをします。専門家向けの学術書なら読んだ人から反論が出るでしょうからまだしも、本連載の2回目で紹介した、バードの日本の旅行記の格好の手引書である宮本氏の名著が講談社から2014年に講談社学術文庫の一冊として刊行された一般書、宮本常一『イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む』(2014)の「解説」として書かれたものであるだけに看過できません(※※※)。
バードのアイヌ観には当時の欧米人のアイヌへの自然人類学的関心や理解と絡むものがあった点も指摘されねばなりません。ですが、このようなこと以上に、バードが、目にするあらゆるものに関心と愛着を抱き、それを鋭い観察眼で捉え素直に書き留めるという少女時代から育んできた旅人としての特質を十二分に発揮し、かつ和人のそれとは全く異質なアイヌの社会・文化・伝統・価値観・宗教・言語を記録に留めることに全力を傾けた知の営みの信じ難いまでの成果を残してくれたことを、私たちは評価し、真摯に受け止めねばなりません。貴重な歴史資料であり、その意義は未来に繋がります(4日という平取滞在日数が私の計算によれば7か月に及ぶ日本滞在期間のわずか0.5%に過ぎなかったのに対し、平取調査に関する部分が二巻本原著の全体の8.4%にも及ぶ事実を見過ごしてはなりません)。ここに暮らすアイヌの人々の息遣いさえ感じ取れる、平取に関する最もすぐれた民族誌的記録として高く評価されるべきです。
チェンバレンは、私が『新書』で初めて明らかにしたように、パークスの依頼を受け、日本研究の第一人者だった一等書記官アーネスト・サトウにもましてバードの日本の旅を支えた人物であり、バードの旅行記に最も通じていたのみならず、バードとの出会いが1つの契機になって平取などでの現地調査に基づくアイヌ語研究を行い、日本学の第一人者となった人です。そのチェンバレンが、バードの旅行記の10年後に刊行した名著”Things Japanese”(『日本事物誌』)でバードの旅行記を「出版後一〇年になるが、英語で書かれた最もすぐれた日本の旅行記であることに変わりはないと思われる。第二巻のアイヌに関する報告はとくに興味深い」と評価し、49年後に出したその第六版でも、表現は変えつつも高い評価自体は変えていません。このことは赤坂氏の主張が正鵠を得たものでないことの何よりの証です。
しかも、彼女の平取調査の意義は、本論の冒頭のマキリの写真を例に証明したように記述に限ってもいくらでもありますが、記述だけではありません。ペンリウクの家の平面図も、きちんと分析することによってペンリウク宅でのバードの生活や参与観察の様子を彷彿させる重要な歴史資料になります。そのことは『完訳3』第42報(続)の訳注として詳述した(pp.312-13)ところであり、その意義は未来に生かされるべきだと考えています(次報参照)。第41報(続)に掲げられている「アイヌの倉[プ]」ほかの挿絵にも興味深い事実が潜んでいます。原著第二巻の口絵(上に掲げた「蝦夷のアイヌ」と題する銅版画)はその最たるもので、簡略本原著とその訳書『新訳』では第37報に収められています。
私にも地理学者として同様の調査の経験がありますが、それを記録として書き残すという点では足元にも及ばないものだったことを実感しつつ、特に平取調査の部分を、訳注を加えながら翻訳していた日々を今もはっきり覚えています。また、フィールドワークの達人とも目される人も私の周りにはいましたが、バードが残した成果に匹敵する成果は知りません。バードが、「質問もそれに対する答えも三ヵ国語を介してなされねばならなかった」(『同3』p.78)と記すような難しい条件の下、今とは全く違う粗末な灯火の下で、上記のような濃密な記述を残し、関連資料を掲げたという事実、そして実質的には公式の報告書にとって不可欠のものとして掲げた25頁にも及ぶ4種の付録の最初に「蝦夷の平取と有珠で採録したアイヌの言葉」を掲げ、320のアイヌ語を紹介している意義は、無視してよいものではありません。
バードがこのようにアイヌ語に強い関心を払ったのは、アイヌとその社会・文化の特質を日本人のそれと対比して捉えることが、日本の本当の姿を、旅を通して明らかにするという日本の旅の一大目的だったからです。ですから、バードの原文を日本語に訳す際には、アイヌの文化がわかるようにアイヌ語を併記することが不可欠であり、こうして初めてアイヌ文化を日本人に伝え、異文化を媒介するという役割を果たせ、バードが書き残してくれた作品を歴史資料として今と未来に生かせるのです(※※※※)。
そのためには、原文を一般の人は簡単には読めず、翻訳書に依らざるをえない以上、すべての出発点となる翻訳書が、バードの記録を正確に再現したものであるのはもちろんのこと、このような要件も満たしていることが不可欠です。そして、以上述べた平取調査の意義は、こう考えた私が『完訳 日本奥地紀行』全4巻の1冊としての『同3』と、『完訳』完成のわずか半年後にその成果を生かして出した簡略本の翻訳書『新訳 日本奥地紀行』によって初めて、明らかにできたことです。従来の訳書ではきちんとわからないのです。読み比べていただければ、はっきりと理解していただけると思いますが、ここでは3つの「モノ」を例に証明してみます。これらの「モノ」は恣意的に選んだのではなく、アイヌの文化と歴史を理解する上で欠かせないモノです。
1つ目は、ペンリウクの家の宝壇に置かれている日本の骨董品の中でも特に大切な「あるモノ」です。これについて、高梨氏は、「二十四個の漆器の壺、茶箱、椅子があり、椅子はそれぞれ高さ二フィートで、四本の小さな脚の先には彫刻を施したり金銀線条細工の真鍮をかぶせたりしてある」(『日本奥地紀行』p.304)と訳します。また時岡敬子氏は、「漆塗りの壺のような茶箱のようなスツールのようなものが二四個あります。それぞれ二フィートの高さがあって、四本の小さな脚がついており、線細工を施した真鍮をかぶせてあります」(時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行(下)』講談社、p.117)と訳します。
ですがこのような訳ではこの大切なものが何であるか皆目わかりません。ですから、ペンリウクの家の設えに関するバードの臨場感に満ちた詳述(『完訳3』p.114)も目に浮かんできません。読者はその理由が、日本人である翻訳家ではなく、異邦人であるバードの記述が悪いからだと思うでしょう。ですが事実は全く逆です。バードは鋭い観察眼でそのあるモノの特徴をきちんと描いているのです。
「二四もの漆製の脚付きシントコ[ケマウシペ]がある。そして、繊細な装飾模様のある真鍮をかぶせた四本の小さな脚[ケマ]がついた、壺のようにも茶箱のようにも腰掛けのようにもみえる高さ二フィートのこの容器[ケマウシペ]の後には…)」(『同3』p.116)と訳せばいいのです。私はこう訳した上で、シントコとは平安時代以来用いられた食物を盛って運ぶための円筒形の容器で、行器(ほかい)というという注記を施しました。こうして初めて、読者は、ペンリウクの家でもこれが大切なものになっていたことがわかるのです。バードは,アイヌ語でイヨイキリというこの宝壇が「アイヌの家屋の一大特徴をなしており、海辺のアイヌ、内陸アイヌの別なく、また貧富の如何を問わずどの家にも備わっている」(『同3』pp.115-116)大切なものであり、なかでも重要な脚付きシントコ[ケマウシペ]が24もあるということもきちんと記し、ペンリウク家の力を的確に読者に示してくれているのです!
ただ、ケマウシペという脚付きシントコのことは「秘蔵の美術品の数々」という小見出しの下でこの段落で1度出てくるだけです。そこで「あるモノ」の2つ目としては、バードが平取の調査の部分で9回も用い、重視しているbowlという言葉を取り上げます。これを、高梨氏は一度「夜の盃」と訳す他はすべて椀と訳し、時岡氏は、茶椀やボウルも含めとすべて椀と訳しているのです(茶椀・ボウルとも各一度訳しますが意味は椀です)。しかし、バードはそのうちの6回は酒を飲む器の意味だと明示して用いており、アイヌ語では、酒を飲む器である杯はトゥキといい、食物を盛る椀であるイタンキと明確に区別しています。ですから、それぞれ翻訳に際しては両者を区別し、杯[トゥキ]、椀[イタンキ]というようにアイヌ語を併記して区別しなければなりません。いくらトゥキが「お椀のような形の塗り物」であれ、杯の総称なのですから、区別しないのは間違いです(6回中の1回は椀をさす言葉としても使用)。バードは、アイヌの人々が飲酒を信仰に関わるものとしていた事実を知りつつも、その弊害や、和人が、彼女からすれば、その悪習を助長していることを深く憂慮し、繰り返し記しているのですから、なおのことです。
以上によって、バードの記述がすばらしいからだけで私たちは彼女の旅行記を楽しめるわけでは全くなく、それは旅と旅行記を科学するという立場から、バードが言わんとしていることが何なのかを、原文の一行一行、一言一句をないがしろにしない正確さを旨とする翻訳を通して初めて理解できるという、等閑視されがちな大切な事実に気づいていただけたと思います。「旅行記を読むとは、その基になった旅を読み、旅する人を読み、旅した場所・地域を読み、旅した時代を読むことである」という認識を誠実に実践した翻訳の重要性を指摘し、4回目を終えます。
(※)しかもこの記述が単独になされているのではなく、この直前、直後の記述と結びつくことによって、より豊かな情報を伝えてくれる。すなわち、①この直前の記述(『同』pp.88-89)によって、バードがこれらを購入するに至った状況、すなわち私の調査を踏まえて言えば、滞在2日目の1878年8月24日の午前におけるバードの行動やアイヌの人々への思いと、彼らのバードへの思いが、その場に私たちもいるかのように臨場感あふれる形でわかる。その上、②「[昨日]矢を売ってくれた男が、不備のあるものでしたのでと言って別の矢を二つ持参し交換してくれた。シーボルト氏と同じように私もまた、彼らが取引の際にはいつも実に誠実だということを知った」ものの、彼らがしていた「輪の直径が一・五インチ[三・八]センチもあるとても大きな耳飾り[ニンカリ]……だけは決して手放そうとしなかった。アイヌの花嫁の婚資なのである」(『同』p.89)という翌25日の記述までもが連続してなされているおかげで、私たちは、バードが買いたかったものの買えなかったモノとその理由を通してアイヌの人々の価値観までも知り得、アイヌの人々へのバードの思いと、「誠実で気前のよい人々」の彼女への思いをその場に居合わせるかのように知ることができるのである。バードは旅の装備を少しでも小さく軽くすることに意を用い、旅先で買いたいものに出会っても自重していた。それだけに、旅の目的地だった平取における以上のような記述は注目に値する。
国立スコットランド博物館に所蔵されているニール・ゴードン・マンローのアイヌ工芸品コレクションと比べれば点数では比すべくもないが、マキリに限れば、刃付きの柄と鞘がセットになっているものは同じく一点にすぎない(『海を渡ったアイヌの工芸ー英国人医師マンローのコレクションからー』財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構、2002)。しかもマンローコレクションのマキリは製作地がわからないのに対し、バードのマキリには今見たようにこれ以上望めないような豊かな情報とセットになった、歴史資料として独自の価値がある。すなわち、旅そのものが浮かび上がるように正確さを旨として訳出した『完訳』や『新訳』と組み合わさることによって、このマキリは、南米以外の世界の全大陸にまたがり、半世紀に及ばんとしたバードの旅の世界の中でも最もエキサイティングな3泊4日の平取滞在の生き証人として、私たちの眼前に立ち現れてくる。その上、工芸品としてのマキリ自体の素晴らしさにおいても、マンローコレクションの刃付きの柄と鞘がセットになったモノと遜色ない。さらに、バードの旅の世界や旅行記を、ツイン・タイム・トラベルを通して楽しむ新しい旅の形の応用編として、バードの母国英国のバード縁の地を訪ねる旅の一部として国立スコットランド博物館でこのマキリに出会える楽しみには、北海道民や平取町民、とりわけアイヌの人々にとっては格別なものがあるに違いない。
(※※)報の原文はLetterです。妹に書き送った手紙ではないという私が明らかにした成果を踏まえ他の訳者のように「信」や「便」ではなく「報」と訳しました。ジョン・マレー版ではこの報の数字だけ、アメリカの読者向けのパトナム版では、内容を表す表題だけで表示されましたが、『完訳』全4巻では、この両方を記して初めて読者が理解しやすくなると考えて併記し、『新訳』でもこの方法を踏襲しました。
(※※※)宮本さんがテキストにしているのが高梨訳『日本奥地紀行』であることに照らせば、この高梨本には注意を要する点があることに触れておく必要が赤坂氏にはあったはずです。宮本さんの名著の本が出る2年半も前に『完訳 日本奥地紀行3』が刊行され、1年前には全4巻が完結しており、これによって高梨本の問題点が明らかになっているからです。しかも、高梨本に依拠して書いた旧稿を基にした書『イザベラ・バードの東北紀行[会津・置賜編]ー『日本奥地紀行』を歩く』(平凡社、2014)が出たのが、宮本さんの名著の講談社本が出たわずか1か月後であり、そこで赤坂氏が「わたしは簡略版の印象から、うかつにも、バードをたんなる行きずりの異邦人の旅人と見なしていたが、とんでもない誤解だった」と釈明し、高梨本を完全に『完訳 日本奥地紀行』に置き換えてこの書を書いているからです(訳注者である私に何の了解をとることもなくもなく、『完訳 日本奥地紀行』を利用するおかげで長年にわたって誤ったことを社会に発信してきたことが誤りだったことを気づかせてくれたという感謝の気持ちもなく、最初から最後まで膨大な引用を行って初めてこの書物が成り立っていること自体が大きな問題です)。また、赤坂氏は簡訳注に依拠したことが、氏が長きにわたって誤解してきたことの原因であったったかのように書きますが、これも座視できない誤りです。簡略本原著でなく、高梨本が正しいと考え、それに依拠したことが原因であるからです。このことは、私が『完訳 日本奥地紀行』の成果を生かし、二巻本原著で省略された部分を削って成った『新訳 日本奥地紀行』と高梨本を比較すれば一目瞭然になります(この二冊は似て非なるものです)。赤坂氏は高梨本を読み、そこに訳されている文章を書いているのですから、基本的には『新訳 日本奥地紀行』に依拠して書き直すのが理に叶っているにも拘らず、『新訳』が存在していることを読者が全く知り得ない形にしているのも問題です。また、氏がフィールドを重視する民俗学者であるならば、2か月以上もの間厳しい旅すなわちフィールドワークを重ねてきたバードの、最終目的地平取での、参与観察的調査を評価することを全くしないことは理解できません。旅そのものを重視してバードの「旅と旅行記を科学」し、その一環として訳書を刊行した私にはそう思われます。そして2回目で紹介した平凡社本における佐野眞一氏の解説を読者が読まれることを勧めます。赤坂氏に欠けている宮本さんの本への尊敬の念がベースにあるこの解説に心温まるものを感じ、「この名著を読んでよかった」とか、「読んでみよう」と思うに違いありません。
(※※※※)私はアイヌ語を知りませんでした。ですがアイヌ語を併記することなく、アイヌ文化に対するバードの思いと記述、とりわけ平取調査の記録の意義を日本の読者に伝えることはできないと考え、田村すず子さんの『アイヌ語沙流方言辞典』草風館や萓野茂さんの『萓野 茂のアイヌ語辞典増補版』、服部四郎編『アイヌ語方言辞典』、ジョン・バチラーの“An Ainu-English-Japanese Dictionary アイヌ・英・和辭典”を購入して勉強し、前記したバードの原著の付録Aすなわち5頁にわたるアイヌの言葉の翻訳を、早稲田大学に近い田村先生の研究室で2度にわたって見て頂き、ご教示も踏まえた成果を本文にも生かして注記しました。バードの苦労に比べればたいしたことではありませんし、訳者として当然のことです。早稲田大学教授笹原宏之先生からご紹介いただけたおかげで沙流方言の最高の権威である田村先生から面前で、事前に翻訳し持参していった表の訳語について逐一チェックいただけたのは本当にありがたいことでした。この付録が簡略本では省かれているだけでなく、前述の時岡本も、楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード日本紀行』雄松堂出版、2002も二巻本を底本にしているにも拘らず25頁にも及ぶ付録を4種類からなる内容さえ記さずに省いているために、先生はバードがこのような興味深い資料を作成していたことをご存じなかったのです。それ故驚かれ、この表を3か国語で翻訳表示し、訳文自体にも日本語だけでなくアイヌ語を逐一併記するという私の意図を高く評価し、バードの会話による調査の状況も踏まえた私のアイヌ語訳の正確さも認めてくださいました。田村先生には今も感謝の気持でいっぱいです。「バードも天国で驚き喜んでくれていますね」と言って笑い合ったことを今でも覚えています。
©Kai Fusayoshi
金坂清則(かなさか・きよのり)
1947年生まれ。地理学者、京都大学名誉教授。イザベラ・バード研究および写真展等の活動により王立地理学協会特別会員、王立スコットランド地理学協会特別会員、日英協会賞受賞。訳書・論文に『完訳 日本奥地紀行』(日本翻訳出版文化賞受賞)、『新訳 日本奥地紀行』、『イザベラ・バードと日本の旅』、写真集『ツイン・タイム・トラベル イザベラ・バードの旅の世界 In the Footsteps of Isabella Bird: Adventures in Twin Time Travel』(日本地理学会賞受賞)ほか多数。(上記書籍はいずれも平凡社)