国稀酒造(株)資料室からの旅-1

地域史の入口にある資料室

国稀酒造(株)の酒蔵の壁に印された「丸に一」のマークは、源流である「丸一本間」の屋号。高い志をなんとすっきりとあらわしたデザインだろう

現在「日本最北の酒蔵」と呼ばれる増毛町の国稀酒造(株)には、小さくとも濃密な資料室がある。そこを入口にこの蔵のあゆみと地域の歴史を綴ってみよう。とりあえずのはじまりは、1980年代。「陸の孤島」を解消した国道231号の全通だ。
谷口雅春-text&photo

物語は国道231号から

一本の道が、まちの歴史を劇的に変える。
北海道開拓史では、例えば旭川までの上川道路(現・国道12号)が明治20年代はじめに全通したことで内陸の拠点となる旭川が生まれ、永山や東旭川の屯田兵村が開かれていった。第七師団を札幌から鷹栖村(現・旭川市)の近文に移転させるためにも(1901・02年)、北海道官設鉄道の鉄路と合わせて、この道路が欠かせなかった。

時代が大きく下って20世紀後半になっても、そんな北海道らしい事例があらためて人々に意識されたことがある。日本海沿岸を北上する国道231号の全通だ。
札幌・留萌間を海沿いに結ぶ道路計画は1953(昭和28)年に国道(231号)に指定されたが、浜益(はまます)以北の切り立った岩山に挑む難工事はなかなか進まない。そもそも石狩市街を北上しても、石狩川河口近くに橋がかかったのはようやく1972(昭和47)年の夏で(第1期工事)、それまで大河の両岸を結ぶのは、珍しいことに国営の渡船だった。
そして最後まで残った浜益村(現・石狩市)の千代志別(ちよしべつ)から雄冬(おふゆ・増毛町)までの5.5kmが開通したのは、1981(昭和56)年11月のこと。それまで雄冬は「陸の孤島」と呼ばれ、車が通れる陸路がなかった。雄冬と増毛市街のあいだは、定期航路が結んでいたのだ。増毛から雄冬まで海路26キロ。昭和40年代に知床に秘境ブームが起こると、雄冬は「西の知床」と呼ばれた。

平地がほとんどない雄冬のような場所になぜ古くから人の営みがあったのか。理由は、北海道の日本海沿岸各地で盛んだった、江戸時代からのニシン漁だ。
松前藩が束ねて18世紀はじめから本格化した西蝦夷地(北海道日本海側)のニシン漁の中心は、当初は松前や江差のある道南の檜山(ひやま)地方だった。しかし資源が減ったために、漁場は19世紀半ばから北上をはじめる。漁業者たちはニシンを求めて北へ大移動。いわゆる追いニシンと呼ばれる出稼ぎだ。増毛をはじめとした石狩以北のニシン場の経済が一気に拡大していった。『増毛町概史』によれば、すでに1856(安政3)年のマシケには百軒に近い追いニシン業者がいたとある。彼らのもとに、アイヌと和人が集められ、出稼ぎにとどまらない和人の定住者も増えていく。
近代になって漁法もさらに進化して、1930年代までは増毛だけで年間5万〜6万トン獲れることも珍しくなかった。現在は北海道全体でも1.5万トン程度だから、地域にとっていかに大きな産業だったことだろう。古来ニシンの大部分は浜で茹でて脂を締め上げ、肥料の〆粕に加工されて本州へ出荷されていった。
増毛で最後の大漁となったのは、雄冬に灯台ができた1952(昭和27)年のこと。そこからニシンの来遊量は急減して、1958(昭和33)年以降は漁が成立しなくなってしまった。

日本海に突き刺さるような断崖がつづく国道231号。石狩市濃昼(ごきびる)

国道の全通に話を戻そう。
待望の開通を迎えた231号は、地域を熱く盛り上げた。しかしすぐ翌月。雄冬トンネルの雄冬側入り口付近(巻出し部)が崖崩れによって激しく崩壊。札幌から増毛や留萌までの新ルートは完全に塞がれてしまう。歓喜にわいていた雄冬の住民たちのショックは大きく、その年の冬の生活物資の調達のために、臨時の迂回路が突貫工事で通された。しかしほどなくして積雪のために閉じられてしまう。完全な復旧作業には2年4カ月をついやし、231号が再び全通したのは、1984(昭和59)年の春だった。
その後もより安全な通年通行のために、工事は続けられる。
最後の難所といわれた増毛町歩古丹(あゆみこたん)―大別苅(おおべっかり)のあいだには、新ルートの工事が進められた。それは足かけ10年もの歳月をかけて完成したが、『新増毛町史』には、開通式(1992年10月22日)での当時の本間泰次町長のスピーチの一節が引かれている。
「増毛は札幌に最も近い行楽地だという意識がだんだん高まってきているのではないかと思います。今日のオープンは増毛の歴史的な一日であろうと思っています」。
たった一本の道が、まちの将来にとってはどれほど大きな意味をもっていたことだろう。

雄冬と増毛市街を結ぶ雄冬航路に幕を下ろしたのは、この新ルートの完成だった。そのころの増毛を舞台に作られたのが、高倉健主演の映画「駅 STATION」だ。
射撃のエキスパートである警察官、主人公英次(高倉健)の実家は雄冬にあり、劇中では「来年には雄冬まで道が通る」と、地元の人がうれしそうに語る。また荒天でしばしば欠航した雄冬航路が招いた出会いが、物語を切なく展開させた(ヒロインは倍賞千恵子演じる桐子)。
大正初期からあった雑貨屋を「風待食堂」という食堂と宿に設定したロケ現場は、いまもその看板を掲げながら観光案内所になっている。映画の中で、2016(平成28)年に廃線となった増毛までの留萌本線や増毛駅が地域をいきいきと動かしているようすも、いま見ると愛おしい。

雄冬という地名はアイヌ語のウフイ(燃える、焼ける)に由来する。断崖の赤い岩層のことか、焚き火や野火のことか

観光バス会社の目が新たな価値を見いだす

日本最北の酒蔵として知られる国稀酒造のショップや歴史展示室が生まれたのも、この道の全通がきっかけだった。1992年の国道231号新ルート開通式でスピーチした本間泰次町長は、この酒蔵の社長も務めた本間家の当主だった。

国稀酒造(株)の源流は、1876(明治9)年に増毛村(当時)弁天町1丁目で開業した呉服太物店(絹織物に対して綿などの織物を太物と称した)だ。店は1882(明治15)年に、「丸一本間」というのれんを掲げ、明治・大正・昭和へと、酒造りや漁業、海運、物販、さらには不動産、倉庫、牧場など、幅広いビジネスを発展させていく。現在の国稀酒造は、そうした事業群の中で最後に残った事業だ。

国稀酒造のショップや資料室を誕生させたきっかけは、外部からの声だった。同社の取締役企画室長の本間櫻さんは言う。
「国道231号の全通からほどなくして、あるとき回送中の観光バスがうちの前に止まって、ベテランのガイドさんが降りてきました。そして、蔵を見学できませんか?観光ルートに入っていただけませんか?と提案されたのです」
酒蔵が一般の人々を迎え入れて現場の一部を見せたり製品を直接販売することは今では当たり前のことだが、当時はちがう。まして、札幌からの海岸線から見れば「陸の孤島」のさらに北にある増毛だ。半信半疑で取り組んでみることにした。
観光バス側としては、新しいルートから道北観光の商品開発をしたかった。札幌から北上して増毛から道道94号(増毛稲田線)で北竜や深川、旭川に抜けるコースを設けたが、増毛までは左手に日本海、右手に岩壁と単調な風景がつづき、トピックがなくてガイド泣かせと言われていた。ぜひとも増毛に魅力的なスポットがほしいところだったのだ。

ここでしか買えない限定酒も人気のショップと、企画室長の本間櫻さん。カウンターは、酒搾りに使用していた槽(ふね)の材を活用している

国稀酒造はまず、製造のようすを観光客に垣間見てもらうような準備と、直売するショップを設けた。スタート時にはレジスターもなくて、レシートも出せない。売上金は手近にある缶に入れていたという。
「その後中古のレジを入れて、カウンターや棚を作りました。やがて酒器や和洋小物などのグッズを置いたり、蔵の手前に利き酒をしていただくコーナーも作っていきました」
銘酒のもとになる暑寒別山系の伏流水を引いた水場も、誰でも名水を持ち帰ることができる場所として人気を集める。こうして国稀は、国道231号の代表的な観光スポットとして認知されていった。
2000(平成12)年からは、仕込蔵や貯蔵庫、原料処理棟、製品倉庫などの改修・新築工事を進めた。狙いは、現代的な機能に加えて明治期の景観を復活させることにもあり、事務所と原料処理棟の外壁などには、百年以上前に建てられた石蔵で使われていた石を再利用した。駐車場の花壇に使う石や道路に面した看板も、石蔵で使用していた石や柱がていねいに再活用される。

2001年には、JR増毛駅前の歴史的建物群と増毛小学校が北海道遺産に選ばれたが、その代表的な建物が、酒蔵から 一丁東にある「旧商家丸一本間家」だ。この商家棟は2003年、国の重要文化財にも指定された。地域の文化資源として、国内第一級のお墨付きが得られたのだ。
また2002(平成14)年には、蔵から離れた小屋で、ニシン漁の最後の時期に造られた枠船の公開も始めていた(現在は蔵近くの千石蔵という同社の倉庫で解説資料とともに展示)。枠船とは、つかまえたニシンが詰まった枠網を、海中にあるまま陸地近くまで運ぶ船だ。
国道231号はその後も改良が進められ、平成に入ると増毛までのより安全な通年通行をめざして、日方泊(ひかたとまり)トンネル(2004年)や新送毛(しんおくりげ)トンネル(2013年)など、大きなトンネルも完成していった。

酒蔵の一角に設けられた、国稀酒造資料室。かつての道具や酒器、古いラベルが貼られた製品群が展示されている

製品庫を歴史資料室に

資料室を含めてショップや休憩コーナーがいまの形になったのは、観光バスに加えて個人の旅行客や札幌方面からのレジャー客が安定して訪れるようになっていた、2002(平成14)年のことだ。
資料室はもとは製品庫で、出荷前の製品を保管しておく場所だった。
酒蔵手前にあるこの蔵は三階建てで、中央にある大黒柱は、土台から三階まで同じ太さの一本柱が貫いている。百年を超える道産のトドマツだ。室内には、酒造りに使用していた道具や酒器、古いラベルなどが展示されて、壁の一面には古いラベルの瓶が壮観に並ぶ。
明治から昭和初期まで販売されていた「白鷹」、戦後から平成3年度まで、一級酒・二級酒といった等級制があった時代の「国稀」、「国稀」の古い陶製樽など、蔵の歴史がひと目でわかるだろう。

2000年代に入ると国稀酒造では、町役場や留萌振興局などとも連携をとりながら、みずから積極的に情報発信をしたり、外部と連携をとる取り組みも進めていった。地域の歴史トピックスを集めて小冊子を作り、北海道バス協会などに提供したのもその一環だ。
さらに増毛町では、以前は暑寒公園(増毛リバーサイドパーク)で行われていた春の人気イベント「増毛えびまつり」をまちの中心部で行うことにして、日本酒と海の幸という増毛ならではの名物を中心にした、大きなイベントに発展させた。2018年からは「増毛春の味まつり」と名前を変えて、5月の最終週末に弁天町の一丁目通りが歩行者天国になって盛り上がる。前浜で揚がった甘エビやホタテ、タコの直売や国稀酒造による日本酒販売、さらにたくさんの屋台や、ステージイベントが繰り広げられる祝祭だ。
コロナ禍前の2019年には、町の人口の10倍以上の人々が集まったというこのまつり。今年はそれが4年ぶりに復活する(5月27日・28日)。
増毛町商工会女性部の部長も務める国稀酒造の林花織取締役副社長は町外から来る人々に、「旧増毛駅一帯の古い建物群や丘の上の旧増毛小学校などを見に、ぜひ増毛のまちをゆっくり歩いてみてほしい」、と言う。
旧増毛駅エリアの古い建物群や旧増毛小学校は、先にふれた映画「駅 ステーション」にも味わいのある背景として登場する、魅力ある増毛の顔だ。

旧増毛小学校。1936(昭和11年)11月から移転する2012(平成24年)まで子どもたちの声が響いていた、現存する北海道最古で最大の木造校舎(内部は通常非公開)