国稀酒造(株)資料室からの旅-2

北海道をめざした佐渡人の系譜

観光案内所と小樽市総合博物館運河館として利用されている、明治20年代に建てられた旧小樽倉庫。屋根には建物を守る鯱(しゃちほこ)

1882(明治15)年に増毛で「丸一本間」というのれんを上げた本間泰蔵は、明治初期に佐渡から北海道をめざした青年だ。その果敢な商いはやがて、今日の国稀酒造を生み出した。「日本最北の酒蔵」の源流をめぐると、北海道と佐渡の深い関わりが見えてくる。
谷口雅春-text&photo

はじまりは一枚の地図

小樽運河に面した観光名所でもある「小樽市総合博物館・運河館」には、まちのあゆみを地図で追いながら解説する一角がある。1877(明治10)年ころの地図を模写した一枚が、「小樽内(オタルナイ)概要図」だ。小樽内とはアイヌ語由来の小樽の旧名で、砂の中の川、という意味。その場所はずっと札幌寄りで、いまの新川の河口付近だった。
明治初頭の小樽のまちの中心は勝納(かつない)川と入船川のあいだにあり、開拓使の小樽郡役所もその海沿いにあった。広大な埋め立て地がフラットに広がる現在と違って、当時の勝納川の河口沖には船溜まりがあり、毎年春には、関西や北陸方面から米や味噌や酒、そしてさまざまな生活物資を積んだ北前船が続々と来航した。
地図に目をこらすと固有名が印された家もあり、中央に倉内仁吉と書かれたものが見えるだろう。この倉内仁吉が、実は国稀酒造(株)の創業者本間泰蔵(1849~1927)を佐渡から北海道に連れてきた商人だ。それは1873(明治6)年のことだった。

明治10年ころの小樽中心部を示す「小樽内概要図・模写」の一部に加筆。勝納川が上から下に流れ、中央に「倉内仁吉」の文字が見える。薄い赤線は現在の道路(地図:小樽市総合博物館・運河館所蔵)

本間泰蔵は嘉永2(1849)年、佐渡の西岸、真野湾に面した雑多(さわた)郡河原田町(現・佐渡市佐和田町)に、呉服仕立屋の三男として生まれた。そして倉内仁吉は、佐渡郡新町(現・佐渡市真野町)生まれ。泰蔵の生地は倉内の実家から数キロしか離れていない。倉内家は農業を営む旧家で、父の代からは雑穀商も兼ねていた。
倉内はすでに幕末の安政4(1857)年、20歳で松前藩の城下町、松前の海産物商の家に奉公に出ていた。4年後にいったん帰郷して、翌年再び松前へ。新たな商家で働いてから、雑貨や木綿類を仕込んで、今度は小樽の信香(のぶか)に移った。当時の小樽は、松前や江差ではとうに衰退していたニシン漁を軸にして急成長を遂げる、幕末の新興都市だ。蝦夷地のニシン漁は、積丹半島以北に資源の中心が移っていた。

倉内は縁あった店の一角で営業したものの、しかし当初はうまくいかない。別の店の使用人となったが、近所で起きた火事でその店は類焼。これを機に独立して呉服・荒物(日用雑貨)の卸業を営むことになる。それを7年ほど続けて力を蓄えた。
時代は明治へ—。
仁吉は再び小売店を開業。このころになると北海道への移民が年を追って増えていたから、商売はようやく軌道に乗る。1870年代半ばに信香に新店を構えるとますます盛況で、着実に富を得た。博物館にある地図に載っているのは、この時代の倉内仁吉だ。
仁吉は信香の世話役として欠かせない顔になっていく。そして1888(明治21)年には、江差の豪商西谷嘉左衛門が小樽に持っていた酒造場を譲り受けた。仁吉は翌年これを、同郷の縁で養子に迎えた嘉蔵(よしぞう)に譲る。嘉蔵は佐渡の二見で生まれ育った、農業と廻漕業を営む家の次男。幼いころから、真野村(現・佐渡市真野町)の酒造家の叔父のもとで酒造りを学んでいたのだった。嘉蔵は仁吉の酒造場を継ぐ前に、同郷の松沢嘉平治という人物が小樽で起こしていた酒造場を手伝い、事業拡張に大いに貢献していた。仁吉と嘉蔵の酒蔵が、小樽の酒蔵史に登場する倉内酒造だ。

1873(明治6)年。
いきさつはわからないが、国稀酒造の初代本間泰蔵は、この倉内仁吉に伴われて小樽の地を踏んだ。そして呉服商松居政助の店に雇われる。泰蔵の奮闘や倉内酒造のことは次回に譲ろう。

倉内仁吉と、あとを継いだ嘉蔵(『北海道立志編第一巻』より)

幕末の佐渡人、尼港へ

佐渡にちなむさまざまな史実を編んだ『佐渡の百年』には、倉内忠左衛門という人物が幕末に経験した驚くべき冒険譚が載っている。彼の実家は仁吉と同じ新町だから、この人物を倉内仁吉の父多左エ門だと見る向きもある。冒険譚とは次のようなものだ。

安政年間(1854-1860)、忠左衛門は佐渡から江差に渡り、餅屋を営んでいた。そのころ樺太西海岸の南端シラヌシ(白主)に箱館奉行所の勤番所があったが、冬が厳しすぎて十分な人員が確保できない。そこで高額の手当が用意されていたのだが、血気盛んで無頼漢の気があった忠左衛門は、ならば行ってみようと、妻子を連れて樺太に渡って雇われることにした。
そこで3年の任期を見事勤めあげると、さらにもっと奥地を見たいと、土地のアイヌを雇って小さな船で北をめざした。水や食料は用意したものの、しかしやがて漂流状態になってしまう。そこにロシア人のボートが襲撃してきた。向こうも暴れ者だ。昼夜を問わず鉄砲で応戦する事態となったが、なんとかやりすごした。
そこからなお漂流は続く。次はロシアの漁船が現れた。彼らは幸い、初めて出くわした日本人を助けてくれて、忠左衛門らはその漁師の家で休息することができた。そして身振り手振りで話をすると、ここからさらに北に進めば海とも川ともつかない大きな港に着いて、そこに役所もあるから行ってみると良い、と言う。はたしてその地に着くと、アムール川河口のニコライエフスク(尼港)だった。間宮海峡ごしに樺太最北部と向き合う、ロシアの極東拠点のひとつだ。
ニコライエフスクでは係官の取り調べを受けたが、宿でしばらく休養することができ、役人は、次の春に日本に行く軍艦があるからそれに乗ると良い、と言ってくれた。こうして安政7(1860)年、彼は箱館奉行所に帰還して、詳細を報告する。奉行は忠左衛門の豪胆な行動力を讃えて、武士に取り立てたという。

さてこの倉内忠左衛門は、国稀の本間泰蔵を小樽に連れてきた倉内仁吉の父なのか—。忠左衛門と仁吉の年齢は親子ほどは離れていないし、忠左衛門の実家は餅屋とあるから、齟齬がある。市立佐渡博物館に問い合わせて調べてもらったが、親子である確証は見つからない、という答えだった。

『佐渡の百年』にある、倉内忠左衛門の冒険

北海道経済圏にあった佐渡

こんな遠回りの挿話を持ちだしたのは、佐渡と蝦夷地の深い関わりを説明したかったからだ。
日本海の沿岸域を行き交う本州と北海道の交易は太古からあったが、記録に残っているのは江戸時代からだ。とくに越後や佐渡(「越佐」と称した)からの人とモノの交流は盛んで、『新潟県史』には、松前稼ぎと呼ばれた佐渡からの出稼ぎの一節がある。蝦夷地への出稼ぎが増えた江戸時代中期。佐渡金山の労働力が足りなくなるので、幕府は村ごとにその人数を制限していたという。
蝦夷でのいちばん手っ取り早い稼ぎは、日本海沿岸のニシン漁だ。江戸の狂歌師平秩(へづつ)東作が1780年代に松前や江差に滞在した記録『東遊記』の附録には、暮らしに行き詰まって佐渡や越後から来る者たちで一心に働く者は、家を借りて漁の3カ月で30〜40両を貯めて国に帰る、とある。米価を基準にすると江戸時代中期の1両は現代の4万円くらいといわれるから、3カ月で百数十万円程度の稼ぎになったことになる。
同書でニシンは「田畠の養ひ(※肥料)」になる」とあり、かつて北国(ほっこく・北陸道)だけで使われていたが、近江、畿内、西国筋(中国・四国)に残らず行き渡るようになった。しかし「関東いまだ此益(このえき)ある事をしらず」—。
この時代では、関東や太平洋よりも日本海の方がいかに人とモノの流れがあったのかがしのばれるだろう。

蝦夷地への出稼ぎは北陸や東北からも多かったが、その多くは、このようなニシン場での労働だった。
しかし重要なことだが、佐渡の松前稼ぎはそれだけではない。島の産品の販売、つまり商人としての活動が多かった。『江差町史』では、17世紀初頭から松前を拠点に活動した近江商人があくまで出稼ぎであったのに対して、越佐の商人たちは蝦夷地での土着をめざした、と書く。また18世紀半ばからは江差に、越佐の商人が数人で店を借りて商売をしていた例がいくつもあったという。これらは佐渡店(さどみせ)、越後店と呼ばれた。和人居住地(松前、江差、箱館一帯)とその奥の広大な蝦夷地には明確な境界があったが、ニシンの資源を追って蝦夷地への和人の定住が少しずつ許されていくと、マーケットも広がっていった。

このころになると、それまでは近江商人の商いの中で利を得ていた日本海沿岸各地の船主たちが、独自の海運に乗り出すようになっていく。年に一度蝦夷地と日本海沿岸、そして瀬戸内海や大阪を結ぶ、いわゆる北前船だ。佐渡では島の南端にある宿根木が拠点となった。この地はもともと佐渡の金銀を運ぶ奉行船で栄えていた湊だ。
佐渡からは蝦夷地に、米などの食料のほか藁(わら)製品や木工品、竹製品などを運び、越佐に向けては蝦夷地のコンブやニシン・サケ製品をどっさりと積み込んだ。当時のニシンの刺網は主に藁で編まれていたから、藁はいくらあっても良いものだ。
実はそれ以前、18世紀前半までは、金銀の産出を最優先させるために、島の産品を移出することは禁じられていた。しかし、産出が減って島の暮らしが厳しくなったので、救済措置として産業振興が進められる。歴史を動かすいくつもの要因が複雑にまわって、蝦夷地と佐渡や越後との関わりは深まっていったのだった。

越佐からの人の波が起きたのは、すでに蝦夷地に定住している同郷の先人たちが身元引受人になったからだ。彼らはまた、ニシンの好漁でわく浦々に商船を仕立てて出向き、食糧や生活品を短期間で売り抜けた。松前藩に食い込んで強い権益を握っていた近江商人たちのすきまを掻いくぐるような、機敏な商売だった。

話を少し広げよう。
幕末の会津藩は、越後の魚沼郡や蒲原郡などにも点在した領地を与えられていた。それはこの藩が、ロシアの進出が危惧される蝦夷地警固の一翼を担ったからだ(道東の標津に本陣が置かれた)。内陸深くの会津から蝦夷地の東北端に出兵するためには、効率の良い兵站が不可欠だ。そこで領地の一部と越後の土地との振り替えが行われ、「越後国内にひとつの藩に匹敵するほどの広い領地を持つことになった」(『新潟県史』)。ルートとなったのが、会津若松と越後の新発田を結ぶ会津街道だ。
近世の蝦夷地と本州を俯瞰すれば、越佐がその重要な拠点であったことが、こうした史実からも見えてくる。

その上でさらに佐渡に寄ってみる。
この島には17世紀初頭、本格的な採掘と精錬の技術が石見銀山(現・島根県東部)から導入されて以降、相川にある金銀山の産出量が急増していく。金の資源をもつ佐渡は幕府の直轄領だったから、労働力としてさまざまな人々が島に流入した。人口が急増した相川には、食糧や生産資材もたくさんの土地から運び込まれた。人やモノの動きが少なかった近世において、全国的に見ても佐渡は特異な成り立ちをしていたのだった。そんな土地の商人たちが、時代の枠組みを超えてダイナミックなビジネスや生き方を志向するのも自然なことだったのではないだろうか。
民俗学者宮本常一は『私の日本地図』の佐渡編で、幕末でも蝦夷地へ稼ぎに行く人々や米や藁製品をはじめとしたモノの流れは多く、明治大正になっても、佐渡は、東京ではなく北海道経済圏の中にあったと言っていい、と書いている。

現在の小樽市信香町。勝納川を中心部に向かって渡る真栄橋の先に、地域の古くからの公共施設信香会館

勝納川のほとりで時間を巻き戻す

『小樽豪商列伝・続』(里舘昇)では、倉内仁吉がこう位置づけられている。
「本間泰蔵や呉服商の亀雄紋造(※亀尾紋蔵)などは、若いころはみな倉内仁吉の世話になり、商道を叩き込まれたという」。
本間泰蔵が、佐渡の倉内仁吉の門下であることは知られたことだったのだろう。亀雄紋造もまた佐渡に生まれた三男で、1873(明治6)年、小樽の古い遊興街金曇(こんたん)町にある呉服太物商に養子に入っている。彼も本間泰蔵とともに倉内に連れられて小樽に来たのではないだろうか。1936(昭和11)年発刊の紳士録『人物覚書帳』で亀雄は、苦労を重ねて小さな成功を積み上げながら、明治30年代には小樽区会議員にまでなった成功者として紹介されている。同書では本間泰蔵も、増毛の酒造組合の長となり町会議員や所得税調査委員などの公職に従事する「聲望隆々たるの人」だ。

冒頭でふれた倉内仁吉が明治の初期に暮らした土地は、当時は小樽の中心地だった信香町。勝納川のほとりにある現在の信香会館の近くだ。惜しまれながら古くからの商いを閉じた小町湯があった一角で(2021年秋廃業)、仁吉の住まいがあったところはいま、青空駐車場になっている。
明治20年代以降、小樽では海岸線にそって大規模な埋め立てが営々と続けられ、やがて20世紀後半には勝納川の河口に巨大な勝納埠頭が築かれるまでになる。貨物の効率的な荷揚げのために運河が完成したのは、1923(大正12)年。観光客でにぎわう堺町本通りとその東側も、明治のはじめには陸地ではなく、単に岩場が連なる岸辺だった。
風景はまちの脈動によって変わりつづける。のちに増毛で国稀酒造を起こす本間泰蔵が、野心と希望に燃えて佐渡から渡ってきた当時の小樽をしのばせるものはいま、勝納川の速い流れの響きくらいだろう。

信香町の東端を下る勝納川。毎年4月の第2日曜日からひと月ほど鯉のぼりと大漁旗が飾られる

石狩湾から強い風が吹き込む小樽では火事がつきものだったが、中でも初期の大火として知られているのが、勝納川河口域で1881(明治14)年に起こったものだ。その前年に幌内鉄道の手宮・札幌間が開通していたこともあり、以後小樽の発展は、入船川以西、色内方面へと移っていく。
この大火は、史実を正確になぞった船山馨の長編小説『石狩平野』で、主人公高岡鶴代の家族が、札幌の円山村に入植するきっかけとなった事件でもあった。

信香から小樽の中心部に向かって南小樽駅へ。古くからのまちの営みを感じる小樽歩きが楽しめる

※参考文献
・『佐渡人名録』・『佐渡の百年』(山本修之助)・『新潟県史』・『江差町史』・『小樽市史』・『私の日本地図7佐渡』(宮本常一)・『北海道立志編第一巻』・『小樽区実業家百撰立志編』・『北海道の酒造家と酒造史資料』(加藤良己)・『人物覚書帳』(茶碗谷徳次)・『小樽豪商列伝・続』(里舘昇)ほか