国稀酒造の創業者となる本間泰蔵が小樽から船で最初に増毛の地を踏んだのは、1875(明治8)年のこと。ニシン景気で沸くまちへ、反物などを行商に訪れたのだった。そのころの増毛がどんなまちだったのか。『増毛町史』や『新増毛町史』などをもとに、その少し前から説明してみよう。
幕末の増毛に、幕府から警固を命じられた秋田藩の藩士と農民たちが暮らしていたことは、カイでも以前にふれた。
一帯は江戸時代中期からニシンやサケ・マスの大漁場だ。生産と出荷は、出稼ぎの和人たちと先住アイヌを使って、伊達屋が請け負っていた。江戸商人が源流で、松前に出先を構えた大商家だ。幕末に幕府が蝦夷地を直轄すると、伊達屋はインフラ整備のために雄冬の断崖を内陸から越える山道(増毛山道)を開くことを命じられる。ロシアへの備えとしてのインフラだった。現代から見ると単に素朴なトレイルにすぎないが、これはつまり、ルートは違うが本シリーズ1回目で紹介した、国道231号の源流だ。雄冬にはアイヌコタンのあいだを結ぶ踏み分け道があったが、この増毛山道はあくまで人工的に開削されたものだった。
徳川の世を終わらせた明治政府が立ち上がると、蝦夷地は北海道となる。この島は、後志国小樽郡、石狩国石狩郡、天塩国増毛郡というように、11国86郡に分割された。政府は廃藩置県を断行するまで20数郡を開拓使直轄として、残りをたくさんの藩や華族などに分領支配させることにした。増毛を分領したのは長州藩だったが、開拓に人や資金を投入する余裕はなく、20名あまりを派遣したものの、ほどなく罷免されて引き揚げることになった。そのあと一帯は開拓使直轄となり、漁場の経営は伊達屋が担う。
本間泰蔵が同郷佐渡の商人倉内仁吉に連れられて佐渡から小樽に入ったのは、1873(明治6)年。そのころの増毛のことが、北海道開拓をめざしてのちに函館で開拓会社「開進社」を起こす林顕三が、『北海紀行』にあらわしている。
角材で作られた長い橋で暑寒別川(シウカンヘツ)を渡った平地には、総戸数150戸ほどの集落があり、アイヌのチセ(住居)は10戸。その年のニシンは約5万石(約7500トン)の大漁で、サケ、マスもそれぞれ450トン、コンブが300トンほどの水揚げがあった。干しアワビや煎海鼠(いりこ・煮干しナマコ)の生産も盛んだ。山道を難儀しながら林が訪れた日。ホロトマリ(アイヌ語で「大きな入り江」)と呼ばれた増毛の湊には3百石〜1600石(45〜240トン積)くらいの船が36艘停泊していた。野菜も良く育つので、「此頃逐次ニ地ヲ拓キ農事ヲ開拓セリ」。のちの時代の果樹栽培の可能性がすでに示唆されている。
石狩川河口から海岸線を北上すると、厚田の先は断崖が連続するばかりで、平地が現れるのは浜益(石狩市)と、石狩湾の北東端である雄冬岬を越えた増毛に限られる。そしてホロトマリと称されるように、湊として使える湾になっているのが増毛だ。港口が北向きで、春から秋へは波も比較的おだやかだった。しかし風をさえぎるものがなく、人々はやがて近代的な港湾整備を熱望することになる。
開拓使によって市街地の町割が行われたのは林顕三が視察した翌年(1874年)のことで、そのころの戸数は271戸、アイヌ9戸。人口は、1044人(アイヌ49人)という記録が残っている。わずか1年で、まちの規模がぐんとふくらんでいた。
陸路はけわしい山道しかないので、人はみな海路が頼り。貨幣経済も整っていないから、戸長役場の出張所が漁業者から集める租税は物納で、ニシン粕や胴ニシン(背側を身欠ニシンに取った残りの部分)、カスベ、タラ、ナマコやアワビなどで納められた。
泰蔵が増毛の地を踏んだ1875(明治8)年には、郵便局も開かれた。彼が小樽から行商のために、たくさんの反物などを抱えて船で増毛に入ったのは、こういう時代だった。
明治のひと桁代。
増毛の人々の営みは漁業を軸にまわっていた。雪どけが進み、3月に入ると浜が最も熱狂するニシン漁がはじまる。おおぜいの出稼ぎ者が東北や北陸などから集まり、まちが一気にふくれあがった。ここから狂奔(きょうほん)の二カ月が駆け抜ける。
ニシンが終わると、春から夏へマスやナマコ、コンブの漁がはじまり、秋にはもちろん、サケが押し寄せる。年が明けて2月の声を聞くと、タラやヒラメが揚がった。
肥料となるニシン粕をはじめとした一帯の水産加工品は増毛の湊に集められた。一部は小樽に送られたが、多くは越後や越前、秋田、大阪などから船で集まった商人たちに売られていく。ニシン粕のほかには身欠ニシン、干し数の子、コンブ、煎海鼠(いりこ)などだ。一方でそうした海産物を買いつけにくる本州の商人たちが持ち込んだのは、米や味噌、しょうゆ、わら製品、酒、呉服、日用品などだった。なにより出稼ぎ漁師たち(やん衆)の食糧や日用品の需要は大きかったし、ここは定住者も年を追って急増するブームタウンになっていた。
1874(明治7)年に増毛市街の西に位置する別苅に入った人物の回想では(『増毛町史』)、そのころは日の丸国旗を各戸で立てることが求められ、この日は旗日であるから必ず掲げよ、という書き付けが回ってきた。国旗を立てないことを繰り返した網元には、漁業権の没収さえあったという。
近代国家を立ち上げる国策のもとで、北方ロシアへの備えを担って日本の新たな領土として位置づけられたのが北海道だ。このベクトルは徳川幕府が幕末に動かした政策に直結しているものだが、人々は厳しい北方の大自然や見えない大国と向き合いながら、それまでは意識することもなかった日本という国家の枠組みを念頭に置くようになっていく。北海道のはじまりとは、そういう成り立ちをしていた。
漁をめぐってさまざまな人が行き交う活気に満ちたニシン漁場は、商人から見れば圧倒的な売り手市場だ。泰蔵が小樽から持ち込んだものは、もくろみ通りすぐさま売れた。行商人にとって、増毛は競合も少ない、いわゆるブルーオーシャンだったのだ。
勝算ありと踏んだ彼は、はやくも翌1876(明治9)年には弁天町に小さな店を開き、小樽から仕入れた呉服太物などを売りはじめる。太物とは、綿織物や麻織物など、絹織物より糸が太い織物のこと。この時点ではまだ小樽の旧主家が拠点としてあり、長期滞在の行商だったようだ。しかし『増毛町史』では、この地に新しく小売店が生まれたのは、明治9年ころからだとあるから、泰蔵はそのはしりのひとりといえるだろう。
売れ行きが良かったといっても、一軒の店を構えるにはやはり、元手はもとより信用や人づきあいが重要だ。実は彼にはすでに増毛に支援者がいた。熱心に反物を行商する泰蔵に目をかけてくれた高利貸しの女性だった。本州から来るやり手商人たちがしのぎをけずるニシン場で着実に利を重ねていた仕事ぶりから、女傑と目されていたと伝えられている。これも明治の新開地ならではの、勢いがほとばしるような商戦と人間模様だろう。
このころ開拓使は、江戸時代からつづく独占的な場所請負制度を廃止したので、商業環境は大きく変容していくさなかにあった。
この弁天町とは船から荷揚げされる土地で早くから市街が形成されていたが、町名は古くからあった弁天社に由来する。この社は、松前藩の家老下国家の知行地の漁場経営を請け負っていた阿部(あぶ)屋村山伝兵衛が、18世紀半ばに村山家の氏神として創建したもの。阿部屋につづいて請負となった伊達屋が安芸の厳島神社からの分霊を祀ってからは厳島神社となり、1893(明治26)年に現在地の稲葉町に移された。弁天社の源流は、石狩川河口近くにある石狩弁天社だし、増毛の厳島神社は、のちに本間泰蔵にとっても重要な拠り所となる。増毛には、漁労を軸にした、近世の石狩湾の歩みが深く刻まれている。
泰蔵の店は順調な商売を繰り広げたが、ほどなくして大きなつまずきを強いられた。1880(明治13)年6月の大火だ。
永寿町から出火した火事は、中心部の家屋百戸以上を焼く大災害となる。この年は、春にニシン漁船が数十隻遭難して60名以上が溺死するという事件も起きているから、草創期の増毛にとって、特段に厳しい巡り合わせとなった。泰蔵もまた、財産と住まいを失ってしまう。
しかし開店を支援してくれた高利貸しの女性が、再び泰蔵に救いの手を伸ばした。女性にとっては、情けをかけた援助というよりも、優秀な若手商人への投資だったのではないだろうか。おかげで泰蔵は、見事息を吹き返すことができた。
彼はこの女神のような女傑への恩を生涯忘れず、女性が故人となってからも仏間に肖像を置き、彼女の墓を建て、その髪の毛を納めたという。
まちは大火からの復興によって、市街地の区画と道路が現在のものになった。13間(約23.4メートル)の幅員をもつ3本の火防線も整えられた。
1882(明治14)年。はやくも勢いにのった泰蔵は、ニシンの漁業権を取得する。この年、角網3カ統を建てた。江戸時代の刺網による漁から進歩した、さらに効率の良い角網を使った漁法が広がっていた。
同時に泰蔵は、火災に強い石造りの呉服店舗を建てる。商品を入れる土蔵も、防火性の高い漆喰の白壁づくりだ。自分が住む場所はあとまわしで、この土蔵が彼の住まいにもなった。函館や小樽の歴史を俯瞰すれば明らかなように、海風にあおられる湊町に火災はつきものだ。事実この年(1882年)、泰蔵もゆかりの小樽の勝納川河口付近が大火に襲われ、泰蔵を佐渡から導いた郷里の先人、倉内仁吉も焼け出されたのだった。
呉服の商いと共に漁業家としても歩みはじめた泰蔵は翌1883(明治15)年。今日までつづく酒造りをスタートさせた。当時小樽から運ばれてくる本州産の酒は、やん衆(出稼ぎ漁民)たちが手軽に飲めるものではなかったし、湊のまわりには料亭や待合茶屋、妓楼なども繁盛していたから、マーケットは十分だ。酒の基となる、暑寒別山系のやわらかな伏流水もある。ならばこの地で酒を造ろう。佐渡や越後のネットワークがあるから、きっとうまい酒を造ってみせる。泰蔵はそう思った。こうして秋には醸造免許鑑札願いを増毛郡役所に届け出て、醸造業への進出をかなえる。
またこの年、泰蔵は「丸一本間」という屋号を掲げた。
佐渡から小樽に渡り、さまざまな経験を積んだ9年間。32歳になり、いよいよ自らの名を堂々と名乗る商人人生が立ち上がった。
翌年には荒物店を開業して、米や雑貨の販売へと事業のレンジを広げる。
一方で増毛には、陸路がほとんどないという難題がつねにつきまとっていた。人とものの移動は海路が頼りだ。しかしその運行は天候次第。海が荒れる冬期はとくに欠航が多く、増毛以北の天塩や利尻、礼文なども、物不足による困窮がつのった。さらには回漕業者の一方的なビジネスにも不満が絶えない。そこで泰蔵はまず、汽船をチャーターして天塩や利尻・礼文で、小樽で仕入れた商品を販売した。手応えを得て1887(明治20)年には、石狩川を就航していた樺戸丸を購入。本格的な海運事業にも乗り出した。以後、増毛丸や北見丸、留萌丸など自社の持ち船を増やしていく。
この間、郷里の佐渡から呼び寄せたチエと結婚。その翌年(1885年)には長男泰輔が生まれている。1900(明治33)年には第一回増毛町議会に2級議員として当選(6年後には一級議員に)。1905(明治35)年には、丸一本間合名会社を組織して、近代企業の体制を整えた。『新増毛町史』は、呉服・荒物から酒造、漁業、海運、不動産などに及ぶ泰蔵の仕事を、「さながら地域の総合商社の観を呈した」、と評価している。
怒濤のような事業の拡張には、佐渡の本家(呉服仕立屋)筋からの有形無形の支援も受けたのではないだろうか。開拓農家とちがって商家の場合、家族(泰蔵は三男)の北海道への移住には、新天地に新たなビジネスの芽を移植する意味もあったはずだ。
本シリーズの最後に、「国稀」という名にちなむ挿話にふれておこう。
「国稀」と冠した酒が世に出たのは1920(大正9)年。そのいきさつには、日露戦争(1904-05)と、陸軍大将乃木希典の存在があった。
日露戦の局面を勝利へと動かした重大な戦いに、旅順攻略戦と奉天会戦がある。そしてこれらには、増毛からも多くの男たちが入隊していた第七師団(旭川)の、文字通り命をかけた戦闘があった。また旅順港をめぐる203高地の戦いでは、おびただしい戦死者の中で、乃木は次男を失っている(長男も旅順にほど近い金州の戦場で戦死)。
増毛でも、戦没者を弔うために慰霊碑を建てようという気運が高まった。発起人は本間泰蔵だ。泰蔵らは町民から寄付をつのってこれを実現させるのだが、彼は東京に乃木を訪ねて、揮毫を依頼した。乃木が軍事参議官と学習院院長を兼任した年だ。熱意が通じてことは首尾良く進む。その大きな出来事を自らの仕事に印すように、泰蔵は「國の誉」として造っていた酒を「國稀」と改めた。乃木希典の「希」を戴いたのだが、そのままでは恐れ多く礼を欠くと考え、「稀」としたのだった。
1912(明治45)年7月、明治天皇崩御。
9月13日。大喪の礼が行われた当日夜、乃木は妻静子とともに自刃した。その衝撃は、このリーダーの複雑な内面を推し量る議論を各界で呼び起こしていく。
増毛の忠魂碑は、1915(大正4)年、港を見下ろす現在地に建立された。大正天皇の即位の大礼が行われた年だ。この間、1908(明治41)年に泰蔵は妻チエを亡くしている。
歴史学者大濱徹也は精緻な資料群をもとに編んだ著書『乃木希典』で、当初国民は、戦死者を数えるばかりで戦果を上げられずにいた乃木へ憤懣をぶつけたものの、実子ふたりの戦死が国民の感情をゆさぶったことを論じている。
「国民は乃木のなかに戦争で傷ついた己の姿を見出し、戦争がもたらした苦痛と悲哀を乃木を語る中で訴えようとした」。
泰蔵が、自らの骨を埋めようと決めた増毛の地で忠魂碑を建てるべく奮闘したときから、「國稀(国稀)」を発売する1920(大正9)年まで13年あまり。国稀という名には、泰蔵と増毛のひとびとのこうした思いや出来事が醸されているのだろう。
佐渡から小樽に渡り、さらに増毛の先達のひとりとなった本間泰蔵の事業からは、国家という大きな枠組みを前提に、石狩湾を揺籃にした近代史の深い潮流が見えてくる。