一枚の褒状からサイドストーリーをはじめたい。
1932(昭和7)年の秋、北海道林業会主催の「防風林及屋敷林品評会」で、岩見沢町(現・岩見沢市)志文の草分けである辻村直四郎(なおしろう)が受けた名誉賞だ。
辻村直四郎とはどんな人物だったのか。
彼は1870(明治3)年、神奈川県足柄上郡吉田島村(現・開成町)に農業家の四男に生まれた。13歳で父を、15歳で長兄を亡くし、次兄とともに家業に励んだが、学問と事業への意欲は抑えられず、それを見かねた親族の助けを受けて東京農林学校予備校に学ぶことができた(文献には予備校と出てくるが、これは予科のことではないだろうか)。東京農林学校は、のちに帝国大学と合併して帝国大学農科大学となる学府だ。学友らから北海道の開拓事情を聞き及ぶと、その開拓はこれからの日本の最も尊い事業であることを確信。卒業後は大きな志を抱いて渡道することを決めた。
しかし父亡きあとに必死に育ててくれた母にはなかなか言い出せず、兄に同席してもらって計画を口にできたのは、出発の10日前だった。すると母は、自分は子どもを手元に置いて甘やかすつもりはない。それが天子さまへの忠義になるのなら、どんな遠方にでも行って力を尽くすが良い、ときっぱり言って横を向いていたという。若林功(八紘学院教頭)がまとめた『北海道農業開拓秘録・第1輯(しゅう)』(1940年)にある挿話だ。
同書などをもとに直四郎の挑戦をなぞってみよう。彼は1891(明治24)年に来道。さっそく道庁に日参して、当時用意されていた制度である土地の貸し下げを求めた。しかし、有力なコネもない22歳の一青年を、役人たちは冷たくあしらう。反面、力のある人物には規制を無視したような手厚い便宜が図られていた。高官が投機のプロなどに融通をきかせたために、交通の便が良い肥沃な土地が真の移住希望者になかなか行き渡らなかったことは、『新北海道史』(北海道)をはじめ本道開拓をめぐる言説に繰り返し出てくる話だ。官吏の情実がからんだ不義不正に、直四郎の怒りと焦りは募るばかりだった。
しかしほどなくして、来道以来懇意にしていたやり手の事業家から、自分が持つ馬追原野(現・長沼町)の未開地の開墾を任せられる。来るべき開拓者生活の演習にもぴったりではないか。こうして数人の農夫を引き連れて直四郎の北海道開拓がはじまった。この経験をもとに、直四郎の長女辻村もと子がのちに綴ったのが、小説『馬追原野』だ。
開墾は着実に進んだ。成果が形に見えた翌1892(明治25)年。同じ事業家から、今度は幌向原野(岩見沢)に貸下地の売り物があるので買ってはどうだ、と勧められる。道庁の高官が他人名義で取っておいたものだった。つまりその役人は、無償で土地を得てそれを高く売り抜けようとしているわけだ。約130ヘクタールの原野が380円。汚いやり口にまたしても憤懣が湧いたが、一刻も早く自立するために、「兜を脱いで盗泉の水を飲む」ことを決断。本家の援助を受けてこれを購入すると、急ピッチで準備を進めた。
「明治二十五年五月二十八日は生涯中最も思出多い懐しい記念日だ」。
直四郎はそう書いている(『北海道農業開拓秘録』)。札幌で農機具や家財を用意して古い荷馬車に積んで勇躍出発。しかし江別からは未開地で深い森に心もとない一本道が続くばかりで、西に日が傾くころには馬も疲れ果てて心細さがつのった。ようやく幌向川のほとりの目的地に到着すると、少し前の道路開削で使った作業小屋があり、まずそこを活用することにした。一帯は、太古から石狩川の水系が押し広げてきた肥沃な平地の森で、草地や湿地が混在していた。
まず樹木が薄い草原地を馬の力で鋤(すき)起こしすることが第一歩だが、はじめは馬も人もペースが上がらない。しかしやがて慣れるにつれて、二頭引きで1日3反(900坪)ほども耕起ができるようになり、「愉快極まりなかった」。馬は、事業家のアドバイスで痩せたものを10数頭も買い集めて、毎日取り替えて使う。原野に放して草を自由に食べさせると、みなどんどん元気に太り出したので、良馬を選んで札幌で高く売った。
草原地に対して林地の開墾にはとりわけ骨が折れた。大木は切り倒して枝だけ払って火をつけ、幹はそのままにして2年目以降の乾期に火をつける。あるいは伐らずに樹皮を一周深く切って立ち枯れにして、これも2年目以降に火をつけた。貴重な木材資源が無尽蔵にあったわけだが、市場も運び出す手段もないので、燃やすしかなかったのだ。これらが飛び火して、各地で大規模な山火事が群発したことも開拓史に点描される情景だ。
畑を起こしてソバや麦、豆類などを蒔きつけると一段落したので、森から材料を調達して、幌向川の自然堤防のほとりに自宅を建てることにした。
農作業のない冬はキツネやウサギ、テンやカワウソ、野鳥を銃で狩った。皮は貴重な現金収入になる。弾薬も手づくりだ。ふさふさの冬毛におおわれたキツネは高値で売れるが、すばやく長駆するので仕留めるのは容易ではない。直四郎は、ウサギなどの肉に爆裂弾を包んで食わせて手に入れた。
日清戦争が起こった1894(明治27)年には郷里から弟の高蔵(たかぞう)が来て、小作人を入れた大規模な開拓がスタートする。小作の戸数も順調に増えていったので地名が必要になり、戸長にそのむねを願ったところ、ならば君がつけるのが良い、ただし古来のアイヌ語を失わないように、と言われた。そこで彼は、一帯を流れる幌向川枝流がシュプンペッ(うぐいの川)と呼ばれていたので、「志文」の字を当てる。生きるために北方の厳しい大自然と生身で向き合う開拓地で、あえて文に志すという気概は、のちの長女もと子の作家人生を思うと感慨深い。
1895(明治28)年には、本格的な住宅を建てた。材料はもちろんまわりから木を伐りだして板を挽き、屋根は萱(かや)で葺(ふ)く。
1899(明治32)年。直四郎は農場を弟の高蔵に任せて、先進農業を学ぶために米国カリフォルニアに渡った。実家まわりの財力と、直四郎の知力と大志が可能にした雄飛だ。
1900(明治33)年には払い下げを受けた130ヘクタールの開墾をほぼ終えて、広大な土地が文字通りに自分のものになっていた。
足かけ5年の滞米で多くの技能と経験を積み、郷里小田原で妻を得て志文に戻る。このとき直四郎は34歳。妻の梅路は22歳だった。地域の草分けとして実績を積み上げていく直四郎は、数年の準備を経て1913(大正2)年には立派な邸宅を建てる。これが現在まで残る辻村邸だ。
冒頭に戻ろう。1.5ヘクタールにおよぶ住宅の敷地に整えられて名誉賞を受けた、辻村邸の屋敷林だ。この林は1968(昭和43)年には岩見沢市から、「岩見沢市の美林『住宅原始林』」という指定を受けている。
さて住宅原始林とはなんだろう。なぜ屋敷林が原始林になったのだろう。
辻村家資料研究会の村田文江さん(北海道教育大学岩見沢校元教授・歴史学)らは近年、辻村家にある直四郎が撮った写真や日記の詳細な調査研究を進めて、文字資料をテキスト化する作業を進めている。
賞を受けた1932(昭和7)年の日記には、屋敷林の品評会に関する記述がある。提出が求められた自分の来歴書と、「天然林保存の動機」を書いた、という一節だ。つまり直四郎は、自宅の敷地に天然林を残した人物として知られていた。当時の規則には「防風と薪炭用」として貸し下げ地の1割は開墾以前の森を残すべき、とあったのでそれに従ったという。そして、それがもし半分でも守られて今日(1932年)まで残っていたなら、「千年の大木沃野の間に鬱蒼として内地に見るへ(べ)からさ(ざ)る偉観を呈せしならん」、と書いている。
確かに先述した『北海道農業開拓秘録』にもこの規則のことが出てきて、辻村農場のほかにそれが守られた数少ない土地として、幌向川をはさんで志文の南にある栗沢村(現・岩見沢市)の小西農場が取り上げられている。小西農場を開いたのは愛媛出身で札幌農学校に学んだ小西和(かなう)で、直四郎と同世代だ。小西は当時同校で農学などを教えていた新渡戸稲造の教えもあって森を伐り残したという。農場が次代三代と受け継がれていっても、父祖たちはかつてこのよう原始林を拓いたのだ、という労苦の物語を形に残すためだ。
1968(昭和43)年という、岩見沢市が「住宅原始林」として辻村邸の林を讃えたタイミングに注目しよう。それはおりしも「開道百年」(1869年開拓使設置から100年目)の年だ。大きな節目を迎えて、地域のはじまりを再評価しようとするムーブメントがあったことが想像できる。以後岩見沢市の広報などでも、「開拓当初の原始の森を果敢に残した直四郎」、という物語が重ねられていく。
しかし興味深いことに、一方で直四郎は日記に、この林を有効な防風林ともすべく、積極的に手を入れたことを書いている。当初は郷里(神奈川県小田原地方)の農家がするように、北側に林を整え、南東を開いて南風を入れることを狙った。そうすれば、空知のランドマークである夕張岳の眺望も得られるだろう。
しかし一帯の開拓が進むと、ここでは夏にかけて意外に強い南風が入ることに驚かされる。
「大正元年南方に防風林として独乙(逸)唐檜(ドイツトウヒ)を植へ 又角田村(現・栗山町)方面の存置林が孤立風に耐へず枯死するものあるに鑑み 同時に存置林の周囲に保護林として独乙唐檜を植付たり」
苗を購入したドイツトウヒのほか、水松樹(オンコ)は、幌向川の上流の滝で遊んだときにわざわざ稚苗を抜き取ってきたものだった。
開拓以前の大地の記憶を留めた「住宅原始林」という言葉は、開道百年につながる開拓観の枠組みで生まれたものだろう。
「千古不斧の(せんこふふ・古来人の手が入っていない)原始林」というテーマは、古くから都会人や知識人のロマンをかき立てた。よく知られているのが、直四郎が開墾に打ち込んでいるまさに同時期に滝川周辺を見に来た、作家国木田独歩のテキストだ。
「余は時雨の音の寂しさを知って居る。然(しか)し未だ曾て、原始の大森林を忍びやかに過ぎゆく時雨ほど寂しさを感じたことはない。これ実に自然の幽寂なる私語である。深林の底に居て、此音を聞く者、何人か生物を冷笑する自然の無限の威力を感ぜざらん」(「空知川の岸辺」1902)。
人間の思考と風景の成り立ちを論考する風景論の言説を引くとこの「原始の風景」は、かつて批評家柄谷行人が『日本近代文学の起源』などで論じたように、人生を拓く旅に出た作家の不安定な内面が投影されて、それが「風景」と呼ばれる概念として見いだされたもの、と考えられる。直四郎の長女辻村もと子が『馬追原野』を書いた動機にも、原始の森に立ち向かう近代人の物語を描きたい、という思いが強くあったはずだ。
ここで補助線を引いてみよう。
褒状にある品評会の主催者である北海道林業会長佐上信一は、時の北海道庁長官だ。広島出身の内務官僚で、北海道の農業と酪農の進展に力を尽くしたと評される。佐上は1931(昭和6)年から5年近く札幌で暮らしたが、その北海道観をすなおに語る、興味深いテキストがある。『人物覚書帳』(茶碗谷徳次・1936)という北海道にちなむ人名録の冒頭に「北海道人を語る」としてまとめられているコメントだ。
佐上曰く、「北海道人は一言にして言ふならば相撲取出羽ヶ獄の如きものである。偉大であるが気が小さい」。
出羽ヶ獄とは身長2メートル体重200キロを超えた当時の巨漢力士。関脇まで上ったが、病やケガに苦しめられて恵まれた体を生かせず、たくさんのエピソードに彩られた異形の人気力士だった。
佐上は続けて、北海道人は、まず早春のコブシの花の具合をめぐって今年は豊作か凶作かと心配がはじまり、不吉な予感を想像してとやかく言うことに非常な興味を持つ、という。イワシが絶滅するかもしれない、拓殖費は絶望状態、といった報道ばかりで、しかしそれに目鼻がつくと、新聞は突然「俄然好転!」などと報道する。とにかく苦労性で気が小さいのだ。
同じ新興の地でもアメリカ人はインテリジェンスを主にするが、北海道人はつねにフィーリングで物事を解釈する。精神的な面を忘れて物質に偏り、そのためにつねにキョロキョロしている。
さらには、先覚者の言葉を聞かず、仕事をしても行き当たるまでやってみるから非常に無駄が多い、などとさんざんな言いようだ。
さて佐上が評した90年近い前の北海道人と、現代の北海道人ではどこがどう違っているだろう。
しかし辻村直四郎が天然林に手を加えた屋敷林は、フィーリングやロマンではなく、知性と科学によって生まれたものだ。僕たちはいま、屋敷林と原始林をともに俯瞰できる場所から地域の歩みを考えることができる。
辻村一族の本家筋は、現在の神奈川県小田原市のすぐ北、吉田島村(現・開成町)で代々名主を務め、小田原で財をなした。明治に入って県会議員にもなり、金融や山林経営にも手を広げているから、小田原の代表的な素封家のひとつだ。
1870(明治3)年。分家筋の水田農家に直四郎が生まれる。
一帯は、近世の高名な農業土木技術者・思想家二宮尊徳の生地、桜井村にほど近い。だから地域には、高度な農業土木技術と倹約や後世への責任などを軸に、経済と道徳を一体とする報徳の精神が溶け込んでいた。勤勉節約、分度(分に応じる)と推譲(将来のために蓄える)といったキーワードで語られる、いわゆる報徳仕法だ。
また直四郎の次兄熊吉の妻貞子の兄は、辻村(旧姓近藤)延太郎で、その長男が、日本地理学の泰斗である辻村太郎(1890-1983)。日本における氷河地形研究のパイオニアである辻村太郎には一般の読者にも向けたたくさんの著作があるが、北海道民にはとりわけ、「著作集6」に収められたエッセイ「知床半島行」などが興味深い。知床半島を国立公園に指定するために1962(昭和37)年に行われた調査のスケッチで(1964年知床国立公園指定)、当時の道東の自然が内地の学者の目にどう映っていたかがうかがえる。
さらに延太郎の妹ウタの次男は、日本山岳会の初期のメンバーで、ヨーロッパアルプスの名峰群を日本人で最初期に踏破した辻村伊助(1886-1923)だ。1914(大正3)年の夏。伊助らはスイスアルプスのグロース・シュレックホルン(4078m)で雪崩に巻き込まれて病院に担ぎ込まれ、彼はそこで勤めていたスイス人看護婦と恋に落ち、結婚して日本に連れ帰った。著書『スウィス日記』が岳人たちに今も読み継がれていることや、関東大震災で箱根湯本にある伊助の家が土砂に流されて、3年後、道路の復旧工事で家族全員の遺体が発見されたことなど、伊助の生涯は印象的なエピソードで満たされている。
志文に入った直四郎の一族の裾野には、こうした歴史文化や豊かな人脈がつながっていたのだった。
次回も、村田文江さんらが現在取り組んでいる調査研究をもとに、辻村家の物語を続けたい。