北海道岩見沢市志文の草分けとなった、神奈川県吉田島村(現・開成町)出身の辻村直四郎は、まず1891(明治24)年に数人の雇い人を率いて、馬追原野(現・長沼町)の開墾に入った。のちに志文と呼ばれることになる土地を380町歩買い求め、幌向川のほとりに居を構えて幌向原野に挑むのは、その翌年のことだ。
ちょうどこの1891年。上川では永山村(現・旭川市)に屯田兵が入植して、ロシアの脅威への備えを兼ねた、本格的な開拓が始まる。そのころを説く旭川市博物館の解説シートで、興味深い挿話を読んだことがある。
下士官らが忠別川沿いの測量調査を行うと、無数の蹄の跡が残る踏み分け道が見つかった。上川アイヌが馬を飼っていたという記録はないので不思議な事態だ。たどっていくとはたして、わりあい大きい青毛(黒色)の馬が突然現れた。驚いて発砲すると、まわりの茅原に散っていた馬の群れが一斉に逃げ出した。
陸軍では、近世に和人の手で日高に持ち込まれてから富良野を経て入り込んだ馬が、早くから上川で自然に増えていたのではないか、と推測した。空知太(現・滝川市)の馬喰(ばくろう)たちが入って、20頭以上の親馬と数頭の仔馬を生け捕りにしたという。旭川まで鉄路が延びるのは明治30年代に入ってからだし(1898・明治31年)、直四郎が北海道の地を踏んだ明治20年代半ばは、そんな時代だった。
物事の大きな発見には、ふたつの種類があると思う。一瞬でむきだしの衝撃をもつものと、その後の複雑な展開につづくような、深く静かな驚きをもたらすものだ。明治20年代の上川に野生馬の群れがいた史実は、後者に当たるだろう。
そして辻村直四郎をめぐっても近年、深く静かな驚きをもって受け止められた発見があった。直四郎が残した約390枚もの写真乾板(ガラス乾板)が、思いがけず見つかったのだ。発見したのは、村田文江さん(北海道教育大学岩見沢校元教授・歴史学)と、書誌研究家黒井茂さん(北方史料研究会)らからなる辻村家資料研究会。
同会は辻村家の現当主辻村淑恵さんの依頼を受けて、2016(平成28)年から、直四郎の長女で『馬追原野』で知られる作家辻村もと子が残したノートや資料の調査に当たっていた。
調査の目的のひとつは、完全をめざした「辻村もと子書誌」を作ること。著作をあらためて収集しながら、書評やもと子の仕事に言及している図書や雑誌・新聞記事などの悉皆(しっかい)調査を進めた(悉皆とはひとつ残らずの意味)。その過程では、長編小説『山脈(やまなみ)』や、日本女子大学在学時代の短歌や自らの文学論など未発表の作品が少なからず見つかる。整理はまだ途上だが、こうして収集整理されたもと子に関する資料は、北海道立文学館に収められた。
そしてもうひとつの目的は、直四郎の長男辻村太郎が整理して残してきた資料を「辻村家資料」として目録化すること。
直四郎に関しては手記や原稿、農場に関する文書類があったが、中でも村田さんが注目したのは直四郎の日記だ。例えばこれまでのもと子研究では、『馬追原野』の執筆は直四郎が書き残した開拓日誌がもとになったと言われてきた。しかし実際はそうではなく、彼が書きためた「自叙伝」の原稿だったことが、日記からわかってくる。
「入植初期のものはないのですが、直四郎の『忘備録』は1907(明治40)年から、日記は1911(明治44)年からあります。読み進むと尽きない興味が湧いてきます」
疎開してきたもと子も使っていた客座敷で調査と整理の作業は進められたが、2022年9月、ほぼ最後に地袋を開けたとき、大量のガラス乾板が突然現れた(フィルムが誕生する以前、写真は感光材を塗ったガラス板に画像を写し取っていた)。
陰画の画像を陽に透過させてみると、辻村家のさまざまな日常が、息を呑むような鮮明な写像として切り取られていた。さらに、すでに紙焼きされていたものも残されていた。
村田さんからこの予期しなかった発見のことを聞いたとき、脈絡なく、先に挙げた陸軍の軍人たちが忠別川で不意に馬の群れを見つけたひと幕を思い出してしまった。
村田文江さんと黒井茂さんは、直四郎が残したガラス乾板の全貌をつかむために、まずスキャナーでデジタル化して、プリントアウトして整理することにした。約390枚を、「家族の暮らし」、「農場」 、「地域」などにグルーピングした。家族では、なんといっても子どもたちの成長の記録があり、農場では、人々が元気に働く姿がいきいきと捉えられている。地域の行事では、例えば堤防工事や灌漑工事のようすが記録されていた。田本研造らが撮った開拓使の記録写真では工事自体が主役だが、直四郎の写真では工事に携わった人々が、顔が識別できるくらいの大きさで整列している。
当時写真を撮るには高価な機材と専門知識が必要だから、明治・大正期に道内各地で撮影されたものは、多くがプロの写真師を招くか、家族写真などは札幌や函館、小樽などの写真館に赴いて撮られたものだ。しかし直四郎は、自ら機材を揃え、技術を学びながら多くの写真を残した。村田さんは、直四郎は札幌の武林写真館などで写真と出会い、アメリカ遊学中(1899-1904)にますます記録としての価値に気づいたのかもしれない、と考えている。残念ながら直四郎が使ったカメラのゆくえは、杳として知れない。
直四郎が撮影した写真のごく一部を紹介しよう。
幕末から明治の北海道は、日本の写真史に大きな位置を占めている。
まず1854(嘉永7)年に箱館に来航したペリー艦隊の従軍写真師(エリファレット・ブラウンJr)が、松前藩家老松前勘解由(かげゆ)らのポートレートをダゲレオタイプ(銀板写真)で撮っていて、これは現存する日本最古の写真のひとつといわれる。またペリー艦隊が来て4カ月ほど経つと、エフィム・プチャーチン提督率いるロシア軍艦ディアナ号が箱館に入港。のちに箱館でロシアの初代日本領事になるヨシフ・ゴスケウィッチが中国語通訳として乗船していた。ゴスケウィッチは1858(安政5)年、館員のほかに医師や宣教師などを連れて箱館に着任したが、医師のゼレンスキーが木津孝吉(洋服仕立業)や田本研造に写真術を教えることになる。長崎で医術を学んでいた田本は、幕府の通辞(通訳)の箱館赴任に同行して箱館に来ていたのだった。長崎や横浜と並んで、箱館が日本の写真史の源流に位置づけられるゆえんだ。戊辰戦争の最終局面で蝦夷地に渡り箱館戦争を戦った榎本武揚や土方歳三のポートレートを撮ったのも、田本研造だ。
そして明治の開拓期。
開拓使は、アメリカの開拓事業にならって北海道開拓のようすを当時の先端技術である写真によって記録することに力を入れる。東京から事業を動かした長官黒田清隆らは、これによって居ながらにして道都札幌の建設状況をつかむことができた。水系に沿って先住アイヌのコタンが数カ所あるだけの、和人から見ればただの原野の森にゼロから作られた近代の人工都市である札幌は、その誕生のときから写真に正確に記録された、ユニークなまちなのだ。
開拓の記録のために、田本研造が函館から門弟井田侾吉とともに最初に札幌に入ったのは、1871(明治4)年夏のことだった。田本は脚が不自由だったために、屋外での仕事には助手が不可欠だった。
翌1872年に開拓使は、横浜在住のオーストリア人写真師スチルフリートと契約。彼は助手を伴い、札幌や篠路、白石などで開拓事業の現場を撮影した。開拓使は日本人写真師育成のために、函館の紺野治重や函館から札幌に移っていた武林盛一らを随行させる。このときスチルフリートが使った高価な機材は開拓使が買い上げ、多くは武林に払い下げられた。武林は開拓使御用写真師を務めたのち、1876(明治9)年に札幌で武林写真館を開業(現在の南3条西1丁目)。多くの門弟を道内外に送り出すことになる。
田本はその後も開拓使の発注を受け、北海道本島はもとより千島や樺太にまで高弟を派遣して、開拓使の事業を写真に記録していった。
田本研造の仕事をはじめ、北海道の開拓写真を研究テーマのひとつにする大下智一さん(北海道立函館美術館学芸課長)に、直四郎の写真群のごく一部を見ていただいた。大下さんはこれらを見てまず、「開拓者自身が地域の歴史を長期にわたって撮り続けたことに価値がある」、という。
「私自身はまだ直四郎の取り組みのアウトラインを掴んだ段階ですが、家族写真などの私的なテーマと、農場や地域の公共工事の記録といった公的なテーマが両立している点がユニークだと思います。地域の草分けとして生きた直四郎だからこそ撮ることができた写真ばかりですね」
大下さんによれば現存する北海道の古写真は、開拓使や函館区、札幌区、小樽区(共に1922年市制施行)、さらには帯広の晩成社や夕張の北海道炭礦汽船といった組織が、公的なポジションで撮ったものが知られている。ほかに戦前のアマチュア写真家が残したものでは、魚類学者疋田(ひきた)豊治が研究標本や北海道帝国大学の行事や施設を撮ったもの、そして上磯(現・北斗市)の素封家熊谷孝太郎がストリートスナップのように1920-30年代の函館の街角を写した写真群などがある。
また人々にとって写真がぐんと身近になった戦後には、地域にこだわり、その営みの諸相をドキュメントとして自覚しながら撮り続けたアマチュア写真家がいた。伊達の掛川源一郎や共和の前川茂利らだ。大下さんは、北海道の写真史において直四郎の写真群は彼らアマチュア写真家の取り組みに先行するもので、これからさまざまな比較検討も期待できるという。
直四郎が北海道に来たころ生まれた熊谷孝太郎は、直四郎のほぼひと世代下にあたる。
函館や小樽、札幌に比べて都市の成立が明治20年代以降になる旭川や帯広、釧路といったまちでは、プロの写真師の開業もそれ以降だった。
「しかし、まちの急速な発展に伴うコミュニティの記録や、日露戦争への出征に際してのポートレート撮影など、写真の需要は増えていきました。趣味で撮っていた写真を本業にして写真館を開業した、滝川の高畑利宜(たかばたけとしよし)の娘婿、雄五郎のような人もいます。利宜が、道庁官吏を経て空知太で事業を展開した高畑家も、滝川の草分け的な存在ですね」
志文の歴史そのものが形で残された写真群は、大下さんのような美術館学芸員にとっても、そして村田さんのような歴史研究者にとっても、地域を新たな形で深く静かに再発見していくための詳細な地図になるのだった。
村田さんは、直四郎の日記から写真をめぐるテキストを書きだしてみた。
例えば1912(明治45/大正元)年7月27日には、「村上氏(※宗一と思われる)来旭同道 山形勉強堂にて写真材料を買ひ旭川出発」、とある。写真の材料は旭川で調達していたことがわかる。8月11日には、「子供一同の写真を風防林中にて取る」とあり(先にあげた写真)、9月5日には、「子供笑顔せしめて写真を取る」。同じく8日には、「子供写真を堀内、吉田島、矢倉沢、梅に送る」。子どもの写真をそれぞれの実家や小田原の親戚、そして札幌で入院中の妻(梅路)に送ったのだ。
子どもをめぐる記述が多いことから、直四郎がいかに我が子を大切に慈しんでいたかがわかる。そして村田さんは、長女辻村もと子の人間形成において父の存在の大きさが見えてくる、と言う。
村田さんはさらに、先にあげた8月11日の「子供一同の写真を〜」のように、日記の記述と残された写真がぴったり符号する例が頻出することに魅せられた。
これも写真を載せた、1913(大正2)年8月24日の志文灌漑溝完成通水式が、日記ではこう綴られている。
本日通水式略式として左の人々を招待し、自分、長谷川、宮本、朝十時半の汽車にて来るを駅に出迎ふ (略) 停車場前より馬鉄客車及荷車に分乗し 渡場より一同下車水路に沿うて上り水門に到り 自分は一同を撮影し 予て宮本長谷川の両若者等に準備させたる筵(むしろ)張の下に直したる机腰掛にて 肴赤飯の折詰及正宗、サイダーを開き饗し自分より来賓に対し本事業に助力せられしを謝し 稲見支庁長杯を挙げて 水路の万歳を祝し 宴終り馬車にて帰途 吾が新家を一同に見せ 一同四時半の汽車にて帰る (略)
通水式の写真と日記を重ねることで、その日のできごとがまるで記録映画を見るようにリアルに浮かび上がる。この年はほどなくして北海道史に残る大凶作となるのだったが、地域の安定した米づくりのために待望久しかった灌漑溝が完成して、支庁長をはじめとした重要人物たちと祝賀を催す。そしてその帰り、内装工事中で完成が近い自邸(現在の辻村邸)を披露する直四郎にとって、この日は特別な高揚に満ちた日だっただろう。
いま人々がただ通り過ぎるだけの風景のひとつひとつに、こうした史実や人間の心情が溶け込んでいることに、あらためて気づかされる。
1931(昭和6)年の7月。直四郎は妻梅路、そして長女もと子と道東の旅を楽しんでいる。もと子25歳。その2年前に東京へ嫁いでいて、伏せっていた時期もあったが、このときは父母とともに水入らずの旅に出ることができた。作家としても多産な日々だった。
釧路で春採湖を見て、汽車で川湯に向かう。そして川湯駅から自動車で温泉宿へ。
硫黄山の麓の原に白玉を振り掛けたりと見ゆる シャクナゲの一種だとか磯ツツジを称するものなりとか云ふ短草の白花 見事なる中を一里走りて 川湯温泉にて下車す
(略)
昼食し入浴して3時半 梅(梅路夫人)と元(もと子)と硫黄山に自動車にて行き 小雨の中を倉卒に(あわただしく)写真を3枚取りて 帰りは徒歩したり 写真中元子一人蹲踞(そんきょ)する前は白楊(ドロノキ)と磯ツツジ 後は這松(ハイマツ)なり
当時は誰もが気軽に写真を撮って楽しめる時代ではまったくない。直四郎がいかに写真に魅せられ、労力を厭わなかったことを考えてみよう。村田さんは、直四郎の撮影にはいくつもの意味があったと考える。
「まず自分たちの開拓を正確に記録すること。そして、家族の成長を記すこと。さらには郷里などに、自分たちの近況報告をすること。妻梅路の実家に送った、立派に実った水田を撮った写真も残っています」
直四郎の写真と日記をめぐる話は、さらに次回へとつづく。