はたして北海道人に、かつてのようなパイオニア精神があるのか?!
令和の時代になってもこんな問いが、今さらのように持ち上がることがある。
しかし辻村直四郎の四男辻村朔郎は、すでに1966(昭和41)年に自費出版した随筆集『楡こだち』で、いま(1960年代)は土地の草分けとなった父の時代とは違うのだから、失われたパイオニア精神を嘆いても仕方ないではないか、と書いた。
西瓜の真赤な甘い部分を食べる時の食欲は逞しいが、だんだん皮に近く甘みがうすれるにつれて食欲も衰えざるを得ない。まだ拓かれざる宝庫に、人類として初めてクワやスキを入れるという未知への期待に胸ふくらんだ、往年のパイオニヤー・スピリットと、食い散らされて取り残されたやちだもや白樺の瘠(せき)地に、馬鈴薯を作る熱情とを同日に論ずるのは酷にすぎよう。
明治の末に、開拓地である岩見沢の志文に生まれた朔郎は、東京帝国大学経済学部を卒業すると満洲中央銀行に就職して、ベルリン勤務も経験した。満州から引き揚げた戦後は岩見沢市(助役)や北海道銀行(常務取締役)、札幌日産自動車株式会社(代表取締役)などで仕事をした。
この本の装画は坂本直行で、序文を寄せたのは当時現役の北海道知事町村金五。キャリアやこの顔ぶれを見るだけで辻村家の成り立ちが偲ばれるが、1945(昭和20)年8月にソ連軍が首都新京に迫ると、彼は日本人子女たちと脱出を図った。延々とつらなり遅々として進まないアリの行列のような集団のしんがりを歩いていると、ふと路傍に白いススキの穂が水たまりに映っている、なんでもない風景に強く惹かれたと書いている。
人の世の戦乱とは無縁に、ここに悠久の自然の姿があった。その時、たとえ一歩でも北海道の郷土をこの足で踏むことができれば、とたんに死んでもよいという激しい郷愁が、まるで火山の爆発のように私の腹の底から噴き出してきた。
これは、和人から見れば原始の森に挑んだ父たちの背中を見て育った、開拓二世ならではの深みから湧いた心情だったのだと思う。風景の上澄みを手軽に消費するようなツーリストのまなざしに対して、この視線はあまりに複雑だ。
辻村直四郎の日記と写真をめぐる話を広げよう。
直四郎は、「初めてクワやスキを入れるという未知への期待」を、写真に対しても持っていたはずだ。岩見沢で最初に写真館が開業したのは、1898(明治31)年。一方で直四郎の手元にあったもっとも古い写真は、志文で最初に建てた開墾小屋を1895(明治28)年に写したものだ。
『北海道写真百年史』(札幌写真師会)によれば、明治20年代の岩見沢では、石川県から渡道した大工の広瀬和左衛門が旅館業を起こしていた。この宿を拠点に炭鉱開発などの出張写真を撮りに来ていたのが、札幌の山崎洋三。ちょうどそのころ1894年に発刊された『北海道實業人名録』には札幌の写真業として5名の写真師が紹介されていて、その中にこの山崎がいる。ほかには信伊奈亮正(しいなすけまさ)や、武林写真館の三嶋常磐などの名が並ぶ。広瀬は山崎に勧められて、1898(明治31)年に夕張通り(現・中央通)に広瀬写真館を開業した。
実はそのころ写真の世界に大きな技術革新があった。ガラス乾板の普及だ。
それまでのコロジオン湿板写真法では、写真師は撮影現場で現像処理をしなければならないので、その場に暗室や機材、さらには液体の薬品、水などが必要だった。しかしガラス乾板を使った撮影法では、撮影した原板(ガラス乾板)を持ち帰ってから現像できる。写真師たちは、不安定な環境で難しい技術を要した湿板の暗室作業が不要になったので、薬剤などを携行せずに手軽に遠くで野外撮影もできるようになった。同時に、スタジオでの撮影のハードルも下がる。この技術革新によって明治20年代半ばから、全国各地に写真館が生まれていくのだった。
とはいえやはり写真師といえば、一般の人々が見たこともないような先進機器を、理化学や外国語の知識を駆使して使いこなす、修業を積んだスペシャリストだ。広瀬和左衛門は、写真師をまず小樽から雇った。広瀬写真館はこのエリアで唯一の写真館だったので、千客万来でたいそう賑わったという。
写真の将来性を確信した広瀬は、呉服屋に丁稚に出していた息子の元吉を、札幌の信伊奈写真館に修業に行かせる。信伊奈の写真館は、前回ふれた武林写真館と並ぶ札幌の代表的な写真館だ。
岩見沢に戻った元吉は順調に実績を積み上げ、1958(昭和33)年まで長く営業を続けながら多くの門弟を育てた。そして写真館はそのままの形で、北海道開拓の村(札幌市厚別区)に再現されている。
明治40年代には、栗山で紫明館(1896年小樽で創業)を開いていた京都出身の佐藤邦尾が岩見沢に支店を出した。そして昭和のはじめには、当時の岩見沢町長高柳廣蔵の息子、高柳敏夫が高柳写真館を開業している。
さて回り道をしたが、直四郎の日記だ。
辻村家資料研究会の村田文江さん(北海道教育大学岩見沢校元教授・歴史学)がテキストに起こしたものをお借りしているのだが、そこからは、写真を撮り、ときに写真師たちと交友する彼の日常が見えてくる。写真に関するところだけを一部ピックアップしてみよう。
例えば1912(大正元)年9月12日。
上幌向でエン麦2700俵あまりを陸軍糧秣廠に渡して(軍馬餌料)、幌向駅では知人が渡すのを手伝った。そして「写真乾板器を作らしめて受取る イルホード乾板キャビネ一打(1ダース)沢枝(薬種商沢枝吟香堂)にて求む」、とある。
1914(大正3)年10月18日には、岩見沢町長高柳廣蔵が家族とともに辻村邸を訪れた。また、洋画家渡辺竹成が自作を持って訪問して、「月夜の画一枚を買ふ 代金三円」。そして先に触れた、最初に建てた開墾小屋の写真を、絵画に起こしてほしいと渡辺に発注した。料金15円のうち5円を先払いしている。
1921(大正10)年1月9日には、アメリカ遊学時代に世話になったのだろう米国の女性に手紙をしたためて家族の写真を同封して送っている。近況を知らせるのに写真は最適な手段だ。
翌年(1922年)の夏には子どもたちと近郊の坊主山(現在北海道グリーンランドがある一帯)に遊び「頂上より西方鳥瞰写真を取(ママ)」った。農場主として、地域のまとめ役として忙しい日常の中でも、彼には家族との大切な時間をつくり、それを記録しておきたいという強い気持ちがあったのだ。
この10月18日には、家族や住宅とその周辺、そして防風林や稲の出来、子どもたちの幼時の写真など13枚の写真を、小田原の梅路夫人の実家に送った。梅路は直四郎のひとまわり年下。結婚するまで農作業を経験したこともない女性で、女学校の教師をしていた。20世紀初頭に家柄の良い内地の家庭が娘を開拓地に嫁に出すことは、さぞや覚悟のいることだっただろう。結婚して18年が過ぎていたが、直四郎の心配りがうかがえる。
またこのころは函館遺愛女学校で学んでいたもと子のもとにも、写真を送っている。
1923(大正12)年9月1日。
「家族一同の写真を秋山写真館にて撮り 夕方帰る」
秋山写真館とは、栗山の紫明館の岩見沢支店を運営していた松原惣四郎と秋山務のうち、秋山が独立した写真館だ。
この日は高柳武七郎という人物が訪ねて来た。彼は直四郎の子どもたちと岩見沢で活動写真を見て、辻村邸に泊まっている。武七郎は、時の岩見沢町長高柳廣蔵の甥だ。廣蔵は岩見沢の成長とともに村長、町長、市長を務めた実力者だが、志文地区のリーダーだった直四郎と交流があったのも自然だろう。
そしてこの9月1日の正午近く。
帝都を壊滅させ、南関東一帯に途方もない被害をもたらした関東大地震が起こった。衝撃的な事態を、直四郎は翌2日の新聞で知る。親兄弟の安否もわからない中、ふるさと周辺を襲った未曾有の災害に対して、6日にはまず義援金をおくった。ほどなくして、すぐ来るように、という遠戚からの電報も受ける。親戚たちのようすも知らされ、シリーズ第1回でふれたように、箱根湯本に暮らしていた辻村伊助一家が家ごと土砂に流されて命を落としたこともわかった。直四郎はともあれ、9月30日には実家がある神奈川県吉田島に入ることができた。
実家とその周辺の被害は怖れたほどではなかったが、本家のある太平洋沿岸の小田原の被害は甚大で、小田原城については「塁石悉(ことごと)く崩れ落ちたり」、と記している。直四郎は10月7日に上野を出発して、9日に岩見沢に戻った。
村田さんは、関東大地震を記録した数ある言説の中でも、北海道に移住した開拓者が帰郷して残したものはユニークなものだと言う。
翌1924(大正13)年の春には、長女もと子が函館遺愛女学校を卒業して東京の日本女子大学に進学。直四郎も上京して、同郷の梅路夫人の実家の災害処理に当たっている。
その翌年(1925年)の4月に上京したときには、「歌舞伎座前の写真機店に至り レンズ交換相談を決したり アナスチグマットレンズの大なるものと交換するに 五十円を出したり 蓋(けだ)し持ちレンズは四十円と見て 新レンズ九十円になる」。
7月27日には、「支庁に出す写真(農場、稲田、住宅、林等)を予て頼みし広瀬より受取り 役場に出す」。直四郎は本来紙焼きまでを自分でこなしていて、四男朔郎と五男啓三が中学生になるころには彼らにやらせることもあったが、こういう公式なものは広瀬写真館に頼んだのだった。
昭和に入っても、写真をめぐる日記の記述が絶えることはない。
1928(昭和3)年6月、岩見沢町長高柳廣蔵の息子敏夫が高柳写真館を立ち上げた。同月27日の日記には、「高柳写真館の開業祝に招かれ出席する 客は自分と石黒氏(味噌醤油醸造・町議の石黒長平か)の外(ほか)廣瀬 松原 秋山 三写真師なりき」、とある。
先にあげた『北海道写真百年史』では高柳写真館の開業について、「披露に招かれた写真師は(広瀬写真館の)広瀬元吉、(ともに紫明館出身の)松村(ママ。正しくは松原)、秋山であったと言うから(岩見沢で)第四号写真館と言えるだろう」、とある。
7月16日には「高柳写真館に寄り昼食馳走になり」。
8月23日は、家族で恒例の海水浴。蘭島(小樽)に別荘を借りていたので(のちに購入)、夏の日をここで過ごすのが楽しみだった。
舟遊びをして、兜岩を背景に家族らの写真を撮り、子どもたちとフゴッペの古代文字を見にいった。その翌日には忍路(おしょろ)の環状列石を見て、写真に収めた。
1930(昭和5)年9月30日には、灌漑溝の改造工事の入札を行ったことなどと合わせて、「本日満六十歳紀念写真を高柳写真館にて撮る」、とある。
11月5日には、岩見沢で通っている町立病院の耳鼻科にかかり、北海土功組合に寄ったあと「高柳写真館により現像液を貰ひて 正午汽車にて(志文に)帰り」。そのあと10日には、また耳鼻科に寄ったあと「高柳写真館寄り高柳氏より赤萩の根を貰ひ」、そのあと農会で事務仕事をした。16日にも耳鼻科に掛かったあと「高柳写真館に寄り暫時話して」、正午に帰宅している。
翌年1931(昭和6)年1月19日は終日家にいてあちこちに手紙を書くなどしたが、「高柳写真館館主夕方来たり 写真機を貸してやりたり」とあり、2月16日には町立病院の耳鼻科に寄ったあと、幹部から、昭和6年度は収入3割減となりそうなので経費を3割削りたいのだが、と病院の次年度予算について相談されている。「午後遅くなり高柳君と写真館にて夕餐の馳走になり」、汽車で志文まで帰った。
あいかわらず高柳写真館との深い交友が見えてくる。
Webになる前、雑誌時代の北海道マガジン「カイ」で、北海道の老舗写真館の紹介を続けたことがある(「北海道写真館の旅」2014-2016年)。先にあげた栗山の紫明館など、長く続いていた館の多くはその時点ですでに廃業していたが、創業者が岩見沢の広瀬写真館で修業した帯広のミドリ写真館(1937年創業)や、武林写真館出身の太田元(はじめ)が1927(昭和2)年に開いた旭川の太田写真場など、北海道の初期の写真史に直結する現役の人々に話を聞くことができた。
『武林写真館百年の歩み』(1972年)を見れば、太田元は同館百年の記念式典で関係者を代表して式辞を述べ、その内容が同書に収められている。
岩見沢で最初の写真館となった広瀬写真館の建物が北海道開拓の村で再現されるに当たっては、最晩年にあったミドリ写真館の創業者大玉辨(さとし)さんは、毎日嬉々として協力を惜しまなかったという。そのことが館を運営する今の家族にとってたいせつな糧になっていることを感じた。ミドリ写真館の創業は、広瀬写真館を経て函館で修業していた大玉辨が1934(昭和9)年の大火で焼け出され、従兄弟を頼って帯広にやって来たことがきっかけだった。修業先が碧(みどり)写真館だったので、その屋号をカタカナにしたのだ。
辻村家資料研究会の村田文江さんは、「これまで概説されてきた北海道史を直四郎の目線で読み直すと、自分にとって抜け落ちていたいろいろなことが見えてくる」、という。そんな導きを受けて、今回は直四郎の生活を写真を入口にスケッチしてみたのだが、交友する人々から広がっていく北海道史の細部に興味は尽きない。そして当然、必要なピースがまだまだ足りない。
祖国が敗戦を強いられた1945(昭和20)年8月。直四郎はすでに亡く(1941年4月死去)、四男朔郎は、赴任先の満州から郷里へと命からがら逃避する。その途上に大陸で見たどこにでもある平凡な自然風景が、彼の望郷の思いを爆発させたことを冒頭でふれた。開拓二世の朔郎は、直四郎ら開拓者の時代にはなかった風景の意味や価値を内面から発見したのだろう。そして現代の僕たちにとって、それほど意味のある風景がはたしてあるだろうか。地域史の内側から見える、北海道の風景を探す旅を続けよう。