山川久四郎さんは1930(昭和5)年、下川町にも近いオホーツク海沿岸の興部(おこっぺ)町で生まれた。20歳を過ぎたころ、下川町にいた親戚に声をかけられ「一の橋営林署」に就職する。まだ戦後の食糧難が続く時代で、営林署でも畑をつくり、作物を育てていた。農家出身の久四郎さんは農作業のため営林署に入ったのだが、一の橋に来たのは12月で、畑はまだ雪の下。春まで営林署直営の製材工場で働くことになった。その後、真面目に働く久四郎さんを工場は手放さず、そのまま4、5年が過ぎた。やがて工場は民間に払い下げられるが、久四郎さんは営林署に残り、苗畑(なえばた)の仕事を担当する。ここでも一生懸命な久四郎さんは次々に重要な仕事を任され、山仕事の現場を仕切る主任の補佐役となった。
山では15人ほどの作業員と一緒に泊まり込み、作業の指示から食事の手配まで、とにかくやることが多かった。食料品の調達も久四郎さんの役目で、山から降りて一の橋中心部にあった商店まで買い出しに行った。そこで、妻となるノブ子さんに出会う。
ノブ子さんは1931(昭和6)年、秋田県生まれ。久四郎さんより少し後、商店を経営していた叔父さんに頼まれて一の橋へ手伝いにやって来た。当時の一の橋は林業で栄えに栄え、400戸を超える家々とたくさんの木材工場が並び、映画館もあったという。食料品や雑貨を売る叔父さんの店も大繁盛で、一の橋駅にはブリキ缶に魚を入れて背負った「ガンガン部隊」の女性が大勢降り立ち、ノブ子さんはそこで仕入れた魚も店で売った。
久四郎さんは店に立つノブ子さんを喜ばせようと、ちょっと多めに買い物をしていたのかもしれない。
出会った翌年、1955(昭和30)年に二人は結婚し営林署の官舎に入った。息子が二人生まれ、ノブ子さんは義母に子どもを見てもらい、苗畑の仕事もした。カラマツの苗木を育てた何十年も前のことを、ノブ子さんはつい最近のように教えてくれる。
「マツの木から実をとって、乾燥させて秋に種を播くんです。苗床に肥料をたっぷり入れてね。雪の下で冬を越したら、春先はスダレをかけたり霜にやられないように大事に育て、芽が出て3年くらいで床替えをして、5・6年生の30〜40cmになったら山に植えるんですよ」
一の橋に人があふれていた1970年代、40代だった久四郎さんは一の橋地区に4つあった公区の「公区長」に任命された。そのころは営林署の総務部長で、署の仕事に加えて約80戸の住民の「まとめ役」もすることになり、もともと世話好きな二人にさらに数々の役目が舞い込んできた。
特に気にかけたのは、シンナーをいたずらしたり、自転車を盗んだりと悪さを繰り返す子どもたちだ。ノブ子さんは子どもたちを自宅に呼んで居場所を作った。「官舎の裏に広い庭があったので、小屋を作って緬羊やウサギやヤギを飼ってね、その子たちに世話をしてもらうの。小さいときから育てると可愛いでしょ。それで悪いことはしなくなりました」とノブ子さん。
久四郎さんはその後社会福祉協議会の役員になり、ほかにも交通安全の見守りをしたり、地区の上水道の管理をしたり、山びこ学園の畑仕事を手伝ったり…二人とも、とにかく一の橋のあらゆることにフットワーク軽く、絶え間なく動き続けてきた。80代になった今もシャキシャキとお元気で、毎月、1日と15日に地区を見守る「一の橋神社」の手入れをしている。久四郎さんが手際よく草を刈り、ノブ子さんが可愛い神殿をホウキではく。
「まだここでやる仕事があるし、二人そろっているうちは住み慣れた一の橋にいたいと思います。ここより住みやすいところはありません」
「森林未来都市」を目指して数々の先進的な取り組みを進める下川町は、全国から視察者が後を絶たず、町の姿勢に共感し移住してくる人も多い。この取材を始める前は、下川町のどこにそうしたエネルギーの源があるのかを知りたいと思っていた。いろいろな人に会ってお話を聞き、源は一つではないことに気づき始めたころ、久四郎さんとノブ子さんに会った。
地域のために働いてきた人たちが、ずっと幸せに暮らしていける地域はすばらしい。かれらのような人がいるからこそ、ここが輝いているのだと思う。これからもそうあり続けるように、私たちがその輝きを受け継いでいかなければいけないと思う。