「母村からヒントをもらった味、いつまで握れるかな」
vol.13お梅茶屋 川原トキノさん/新十津川町 道内有数の米どころ新十津川町は、1889(明治22)年、暴風豪雨で村の4分の1が壊滅した奈良県十津川村から移住した人々が開拓したまち。町民たちは十津川村を「母村」と呼び、伝統文化を引き継ぎ、来年は130年を迎える。奈良の郷土料理「柿の葉寿司」をヒントに生まれた新十津川名物「笹寿司」をめあてに北へ向かった。
海から遠いからこそ生まれた保存の知恵
新十津川の「笹寿司」を初めて口にしたのは6年前。笹に包まれたサバ寿司が名物だと小耳に挟み、お梅茶屋の暖簾をくぐった。内陸のこのまちで、なぜ、サバなのか疑問に感じたが、「母村」という言葉がすべて解き明かしてくれた。
そもそも奈良にも海はない。しかし、柿の葉でサバ寿司を包んだ「柿の葉寿司」は、江戸時代から五條や吉野川周辺の村で夏祭りや秋祭りのごちそうとして親しまれていたという。五條といえば柿の産地、しかも伊勢や紀州、河内などの街道が交差する宿場町として栄えていた。海から遠いからこそサバを塩でしめて運び、そのままではしょっぱいので、一口大の握り飯に薄切りの塩サバを添えて食べるようになった。やがてそれを殺菌効果のある柿の葉で包み、重しをのせ3日ほど寝かせて発酵させたのが「柿の葉寿司」のルーツ。冷蔵庫のない時代、動物性タンパク質を保存するための知恵から生まれた、魚と塩と米飯で乳酸発酵させた「なれずし」の一種だったのだ。
徳富笹の香りが寿司のうま味を引き出す
新十津川の「笹寿司」が誕生したのは、30年ほど前。新十津川総合振興公社が1989(昭和64)年に加工センターを完成させ、町内の山林で採取したクマザサを煮沸し、大きさを選別して道外のすし店や鮮魚店向けに「徳富笹」の名で販売を始めた。その笹を使って「何とかまちの名産品を作れないか」と頭をひねったのが、「お梅茶屋」の故店主・川原駒治さんだ。
「最初は北海道だから、サケやホッキでも試作してみたの。でも、やっぱり笹の香りや酢飯に一番合うのはサバだった」と、夫と一緒に試行錯誤したトキノさん。サバは小ぶりだが、脂がのっている八戸産。普通の握りのときよりも、強めに酢でしめるのがおいしく仕上げるコツだ。米は地元産の「ななつぼし」にこだわる。「笹寿司は作りたてよりも、すこし時間を置いてから食べた方がおいしくなる。夏場でも大丈夫。冷蔵庫に入れず、新聞紙に包んで常温で置いておくの」。その言葉通り、札幌へ帰宅してからつまむと、味がしっかり馴染み、ほんのり笹の香りが寿司のうま味を引き出していた。
今も続けているのを見て天国で喜んでいるかな
11月12日、駒治さんの七回忌を迎えた。「親父が亡くなったので店を閉めるつもりでした。でも、ずっと母は続けて、いまの方が元気なくらい」と勇作さん。「主人が元気だった頃も、細かい下ごしらえは私の仕事。忙しいときは握るのも手伝っていたから、1人になっても何とかできる。ただ、自分でこなせるペースがあるので、いまは無理せず完全予約制。平日の午前中は仕出し弁当の注文も入るしね」とトキノさん。
質実剛健、不撓不屈の精神を持つ十津川人気質の血を引いていると思いきや、実は東川町出身。製材や土木建築業などを営む商家に生まれ育ったトキノさんは、当時、車のセールスマンだった駒治さんに見初められた。結婚して旭川で暮らしていたが、1973(昭和48)年「脱サラして、すし屋をやりたい」という夫と共に新十津川へ移り住んだ。
「何も知らなかったから、お客さんが育ててくれたようなもの。その頃、新十津川の農家さんは羽振りがよくてね。“泥落とし”といって、春の田植えが終わると宴会、稲刈りを終えたら宴会と、よく使ってくれた。細々とだけど、いまも続けているのを天国から見て、お父さん、喜んでいるかな」。トキノさんが照れくさそうに笑った。