地図を歩こう「創成東」-3

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「札幌市街之図」1901(明治34)年 本間清造 自治堂 (札幌市公文書館所蔵 抜粋)

都心の隣にありながら、「創成東」にはどこにもない独特のたたずまいがある。その謎に近づくためのガイドは、札幌の創建と水脈の歴史だ。
谷口雅春-text 伊田行孝-photo

碁盤の目のゆがみが気になる

札幌は、碁盤の目のようなすっきりとした街割りが特徴だ。しかし地図で大通東3丁目から北東をじっくりながめてみよう。サッポロファクトリーにかけて、札幌らしい条里が微妙にずれている。大通と北1条通の中通りはあそぶべ公園(東4丁目5)のところで少しクランクしていて、その先は区画が細切れだし、北1条東3丁目と4丁目を隔てる東4丁目通は、さらに大きくクランクしている。中央体育館(東5丁目)のあたりから北を見ても、区画には微妙なずれやゆがみが波動のように広がっている。

北1条と2条の間でクランクする東4丁目通

1901(明治34)年発行の「札幌市街之図」では、北へ向かう東4丁目通は大通から北2条までのあいだだけが少し東へずれていて、東4丁目通に面して、畑や果樹園の中に「農具農機製造所」と「夕張炭事務所」の文字がある。どうしてずれたのだろう。
答えは、前回もふれた開拓使器械場の存在だ。

「札幌市街之図」 1901(明治34)年 本間清造 自治堂(札幌市公文書館所蔵) 


「札幌市街之図」 1901(明治34)年 本間清造 自治堂 (札幌市公文書館所蔵 抜粋)

1872(明治5)年から開拓使は、お雇い外国人N.W.ホルトの指導を受けながら、この一帯に一大工業センターを開いていった。稀少な舶来の先進設備から、北海道の開拓事業に欠かせない建築資材や工業機械、農業機械、そして用具工具が毎日大量に生産され、修理が必要な機械や馬車などもどんどん持ち込まれた。開拓使は1882(明治15)年に廃止されて官営事業群は民間に払い下げられたが、明治40年代の地図にも製粉場や紡績場、味噌醤油製造所などがあり、ふたつの貯木場も残っている。貯木の池は、いまの大通東2丁目と3丁目のあたりだ。

サッポロファクトリー・フロンティア館(北1条東4丁目)がある一角だけが少し東へずれているのが現在の東4丁目通りだが、1901年の地図では、ずれた道がもう少し北にのびている。しかし突き当たりには葡萄酒醸造所や麦酒醸造所、味噌醤油製造場が行く手をふさいでいて、東4丁目通は、当時のメインストリートである北3条通と結ばれてはいない。

北海道庁旧本庁舎(道庁赤れんが)の正門から苗穂まで東にのびる北3条通はかつて札幌通と呼ばれ、建設がはじまった道都のまちづくりの重要な軸となった道だ。東から見てドラマチックなアイストップとなる道庁赤れんが庁舎の竣工は、1888(明治21)年。そのころのこの通りには札幌農学校があり、創成川を越えた東には、病院、紡績場、製網場、味噌製造所、麦酒醸造会社、葡萄酒醸造所などが立ち並んだ。屯田兵の父とも呼ばれる、第二代北海道庁長官永山武四郎の邸宅も道に面していたし、大正の後期から札幌オリンピック(1972年)直前までは、市電の苗穂線が走っていた。

サッポロファクトリー付近から西に北3条通を望む

1901(明治34)年発行の「札幌市街之図」にもどろう。
いまはサッポロファクトリーとなっている麦酒醸造会社や葡萄酒醸造所の周辺には果樹園が広がっている。新しい殖産興業の官営事業の一環としてはじまったビールとワインの製造は、民間に払い下げられてどうなっていっただろう。ビール事業を買ったのは、大倉山ジャンプ競技場に名を残す大倉財閥の宗主、越後出身の大倉喜八郎だ。1906(明治39)年には合併を経て大日本麦酒(株)となり、今日のサッポロビールへとつながっていく。
周辺の果樹園や近隣のブドウを原料に国産ワインの草創期の一翼をになう葡萄酒醸造所を買ったのは、長州出身の桂二郎。兄は、やがて日露戦争を勝利に導く総理となる桂太郎だ。しかし桂は、1891(明治24)年には醸造所を札幌の実業家谷七太郎に売却している。谷は東京、大阪、名古屋にも販路を広げたが、なじみのない舶来酒に人気は出ず、1913(大正2)年には廃業を余儀なくされた。現在の北海道には個性的なワイナリー群が人気を競っているが、谷のこの廃業から60年以上、北海道にはワインの作り手が存在しなかった。サッポロファクトリー・レンガ館の建物群が建てられたのは、1892(明治25)年から1897(明治30)年にかけて。レンガのひとつひとつに谷の苦闘の時代の空気がしみ込んでいるわけだ。

サッポロファクトリー内にある「札幌開拓使麦酒醸造所」

豊平川扇状地の扇端で

見てきたように創成東の条里の微妙なゆがみは、明治期にながくあった広大な器械場と果樹園が生み出したものだった。大きな跡地に一気に再開発プロジェクトを立ち上げるような現代とちがい、このふたつがあったために一帯は、はやくから街割りが進められた都心部のような姿にはならなかったのだ。

もうひとつ注目したいのが、水の流れだ。創成東は豊平川扇状地の扇端で、かつては湧水が無数の小さな流れを結んで伏籠(ふしこ)川に注いでいた。明治40年代に鉄道院北海道管理局札幌工場として創業した現在のJR北海道苗穂(なえぼ)工場は、伏籠川のかつての中州に作られたものだ。
苗穂という地名はアイヌ語のナイ・ポ(小さな川)に由来するが、昭和初期の地図を見ても、鉄道工場周辺にはたくさんの流れが走って北東の茨戸川(石狩川旧流)へと向かっている。

豊平川の豊富な伏流水が、機械から食品まで、さまざまなモノづくりに役立ったことはいうまでもないだろう。苗穂駅周辺にある北海道鉄道技術館やサッポロビール博物館、酪農と乳の歴史館、千歳鶴酒ミュージアムなどでは、この地の歴史風土と人々の営みを実感することができる。

サッポロビール博物館

そもそも近藤重蔵や伊能忠敬がアイヌに導かれて和人としてはじめて蝦夷地を本格調査する寛政年間(1789〜1800)まで、豊平川の本流はいまの伏籠川だった。モエレ沼公園のあるモエレ沼は、この時代の産物だ。大洪水によって流れが大きく変わり、伏籠川の源流は札幌中心部のメム(泉池)になってしまった。流れが衰えても、明治初期までは石狩川河口から茨戸にのぼり、さらに伏籠川を利用して札幌中心部へと入る物流があった。

サッポロファクトリー3条館に隣接した北2条東6丁目には、旧永山武四郎邸がある。屯田兵制度を育て、第二代北海道庁長官を務めた陸軍軍人永山武四郎(1837〜1904)の札幌時代の私邸だ。武四郎の三男武美(のちに東京慈恵会医科大学第三代学長)は、子どものころの記憶として、近所を流れている小川に「悪童連中といっしょにトンギョを掬いにいった」ことを述懐している(『北海道回想録』)。明治30年代の話だ。
創成東を歩く人を導くのは開拓使時代の先進技術史と、いまは失われてしまった、札幌を形づくってきた豊平川扇状地の起伏と水脈だ。

永山武四郎(「明治・大正期の北海道(写真編)」からの転載)


旧永山武四郎邸

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