50年後の修学旅行 北海道を学びほぐそう(3)

縄文からアイヌ、近代へ。北海道史の最前線を歩く

波おだやかで楽園のような風景が広がる有珠湾

噴火湾をのぞむ伊達市の地名の由来が、仙台藩一門の伊達氏にあることは知られているだろう。しかし土地の成り立ちや前史を千年単位でとらえなおしてみると、大地と異文化をめぐる、このまちのさらに興味深い歴史の身体が見えてくる。
谷口雅春-text&photo

噴火湾でもっとも美しい入江、有珠

アイヌ民族のキリスト教伝道者で歌人のバチェラー八重子(1884-1962)は、生まれ育った有珠(ウス・伊達市)のことをこう詠(うた)っている。

「ポロノット タンネシレトや レブンモシリ 神の園生(そのふ)も かくやあるらん」

ウス(ウシヨロ)とは入江を意味するアイヌ語で、美しい「大きな崎(ポロノット)、長い崎(タンネシレト)、沖の島(レブンモシリ)からなる有珠湾はさながら神の園ではないでしょうか」、と。

こんな歌もある。
「有珠コタン 彼方此方(かなたこなた)に チャシ(聖域・砦)ぞある 古きウタリ(同胞)の 後(あと)を語りて」

有珠にはアイヌ民族の古くからの営みがあり、人々は土地の歴史を自らの言葉で語り継いでいた。言葉までも容赦なく奪う明治政府の苛烈な同化政策と差別の時代に生まれ育った八重子だが、彼女の先祖たちは、そこに至る長く複雑な前史を口づてに紡いでいたのだ。
噴火湾南岸にある駒ヶ岳が大噴火して、山体崩壊による大津波が有珠コタンを押し流したのが1640(寛永17)年。そして目の前の有珠山の大噴火が1663(寛文3)年。このときも大きな被害が出ているのだが、わずか23年のあいだに人々はやはりこの地に戻っていたことに驚く。よそから移り住んだ集団もあっただろうが、おそらく多くの人々は、肉親を失い土地がいっときは荒れ果てても、どうしてもこの土地に暮らし続けたかったのだ。

そうした「神の園生」が千年単位の歴史をもっていることを教えてくれるのが、たとえば有珠モシリ遺跡(伊達市)だ。魚港の目の前にある平らな小島全体が縄文期の終わりから続縄文時代(約2500〜1400年前)にかけての遺跡になっている。墓には本州の埋葬の様式が見られたり、はるか南の海で獲れたイモガイの貝輪が見つかっていて、この地と列島の南との広く強い関わりを示している。伊達市開拓記念館の縄文アートギャラリーにはこの貝輪のほか、鹿の角からクマを巧みに彫り出したスプーンがある。アイヌのクマ信仰のルーツの一端がすでにこの時代にあったとも考えられるという。

さてこうして恵まれた豊かな環境にあったこのエリアに、近代になって新たに大きな人の波が押し寄せた。北海道史でもっとも成功した開拓団ともいわれる、仙台藩伊達家一門、亘理(わたり・現在の宮城県亘理町)の伊達邦成(くにしげ)主従とその家族たちだ。1870(明治3)年の春から12年間で総勢2700人もの人々が、亘理から有珠の入江の東の地、現在の伊達市中心部に入植した。

ひとつのまちが自らの意志で生地を捨て、その成り立ちを完全にリセットしてしまったいきさつはこうだ。
徳川の世にピリオドを打った戊辰戦争で敗者となった奥州の大藩仙台藩は、伊達家の取りつぶしは免れたものの、62万石余から28万石に減封されてしまう。さらに伊達一門の仙台藩亘理領主伊達邦成(2万3千石)らにいたっては、削減されたこの知行高の支給対象からはずされたうえに、亘理では領地が南部藩の移駐地となってしまった。亘理伊達家は一門次席であったにもかかわらず、千3百人以上いた家臣たちには、もはや南部藩の支配下で刀を捨てて農民になるしかないと思われた。そこで獅子奮迅の仕事をしたのが、元家老の常磐新九郎(のちの田村顕允)だ。新九郎は邦成に、かくなるうえは全員で蝦夷地にわたり、開拓に取り組みながらロシアをにらんだ北方の守りに尽くそうではありませんか、と訴えた。このとき邦成27歳、新九郎は37歳(ちなみに明治天皇は17歳)。新九郎らは本藩に頼ることなく政府への請願を進めたが、『伊達市史』では新九郎が、一度朝敵のそしりを受けた身であるから、いま箱館で戦っている(箱館戦争)官軍に加わって賊軍の汚名を晴らしてから移住すべきだ、と主張したとある。これは実現しなかったが、60戸250名がそろった第1回移住団が有珠の会所(江戸時代からの幕府の出先機関)に到着したのは、1870(明治3)年の4月頭だった。まだ廃藩も廃刀も決まっていないこの時点の日本では藩の組織も士族の身分も維持されていて、邦成主従は政府から、胆振(いぶり)国有珠郡の支配を仰せつかったことになる。

 

異文化共存の地としての伊達

明治になって蝦夷が北海道と名前を替え、内陸部の本格的な開拓がスタートした。ロシアへの備えを整えながら、近代国家立ち上げのために石炭や木材などの天然資源を開発して、和人の目から見ると手つかずに残されていたような土地にどんどん入植を進める。国策の大プロジェクトだ。蝦夷から北海道へ。先住民の認識とは無関係に、「中央」からこの島に向けられるまなざしは劇的に変わってしまった。
開拓当初の主役を担ったのは、戊辰戦争に負けて居場所を失った旧士族たちだ。中でも代表的な団体が邦成(くにしげ)らのような伊達一門で、亘理のほかにも、邦成の実兄である伊達邦直(仙台藩岩出山領)が厚田郡(のち当別に変更)へ。そして石川邦光(角田藩)が室蘭郡、片倉邦憲(白石藩)が幌別郡への入植を実現させている。伊達の中でも伊達邦直と邦成の兄弟は、当主自らが団を率いた稀有な例として特筆される。

仙台藩は、幕府が蝦夷地の直轄に二度踏み切った時代(19世紀初頭と幕末)に北方警備を命じられていた。幕末での担当範囲は白老から東へ、十勝や根室、千島列島のクナシリ、エトロフにまで及んだ。だから藩の関係者には、蝦夷地に関する十分な情報の蓄積やソースがあったのだろう。火山の噴火が懸念されるものの、豊かな環境が約束された有珠の地に亘理の運命を託したのには、合理的な理由があったのだ。
一方で彼らは、まっさらな原野にゼロからまちづくりをはじめたわけではない。先にふれたように縄文時代にさかのぼる人間の営みが濃密にあったし、近世からにかぎっても有珠には幕府の出先機関(会所)があり大規模な馬産施設(有珠・虻田牧)もあった。官寺だった有珠善光寺も知られていたし、さらになんといっても、数百人規模のアイヌコミュニティがあった。亘理の人々は、アイヌの人々とどのように交わっていったのだろう。
伊達市教育委員会学芸員の伊達元成(もとしげ)さんは、そうした疑問が伊達市の歴史や成り立ちを知る入り口になるという。伊達さんは邦成から5代目、亘理伊達家の初代から数えて20代目にあたる。
「邦成はまず、勤労につとめて北門を守る初志を貫こうといった主旨の『御直書』(おじきしょ)を公布するのですが、その中にアイヌの人々と勝手に売り買いをしたり、その家にみだりに立ち入るな、といった箇条があります。リーダーたちは、アイヌコタンと自分たちとの距離を尊重することを心がけていました」
その上で松前藩や幕府がアイヌとのあいだで行っていたような儀礼や年中行事を守り、共に益のあるような地域経営をめざしたのだ。また彼らには、開拓使のお雇い外国人から西洋農業や科学技術を積極的に学ぶ意欲と挑戦心もみなぎっていた。元成さんは、亘理では本藩や幕府とのあいだに不本意で窮屈な状況も多かったが、こちらに来てのびのびとはじけたところもあったのではないか、と言う。士族の矜恃と強靭な意志で大地と格闘した、といった説話が史実のすべてではないのだ。
「こちらに来て数年で、蒸気船を買ってビジネスをしようという話が盛り上がりました。でもお雇い外国人に、やめておけ10年早い、と諭(さと)されたという記録もあります(笑)」

1899(明治32)年に雑誌太陽(博文館)が、『明治十二傑』という臨時増刊号を出している(国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる)。発刊の辞には、「帝国近世の社会各方面における進歩の実相を描写するために」12の部門で読者投票を行ったとあり、政治では伊藤博文、教育では福澤諭吉、商業では渋沢栄一といった、教科書に登場するようなビッグな名前が並んでいる。そして農業部門で選ばれたのが、伊達邦成なのだった。有識者による選定ではなく読者投票で選ばれるほど、邦成らの挑戦と成功は入植30年弱ですでに広く知られ評価されていたのだ。

開拓成功の要因を伊達元成さんは、戊辰戦争の修羅場をくぐり抜けた、高い教養と開明的な精神をもった強いリーダーたちが自ら渡ってきたことと、彼らに忠誠を誓った勤勉な臣下たちがいたこと。さらに、コミュニティの力を新開地で持続的に育んでいく、すぐれた教育制度があったからだ、と言う。封建的な主従関係は、強く自由な個人と西欧の先進技術文化を理想とした北海道開拓のイメージとは相いれないかもしれない。しかし元成さんは、武士とは保守的な思考やふるまいを宗とする人々ではなく、時代の最前線の変化に果敢に応じながら、変化をおそれなかった人々だったのではないか、と考えている。
「伊達の歴史を大きな構図で捉えなおせば、亘理一門とアイヌの人々の出会いや協力と共存の関係を、異文化同士のあり方という切り口で見ることもできます。複雑な時代を生きる現代の私たちが、そこから学べることは少なくないはずです」

伊達開基の調査研究はいま新たな段階に入り、市井の古文書など多様な資料の細部にわたる分析と論考も進んでいるという。いまの時代であればこそ、研究すること、考えるべきことは、実はまだまだある。元成さんはそう強調する。地域の人々やツーリストにとっては、そうしたあらたな知見にふれたり、ワークショップなどで新鮮な歴史体験をする楽しみもあるだろう。伊達市では2019年春に『だて歴史文化ミュージアム』が開館する。縄文からアイヌ文化期、近世、そして近代の開拓まで。有珠山のふもとを舞台に、さまざまな人々がどのような営みを連ねてきたのかを学ぶと、北海道のまた新たな一面が見えてくるはずだ。

伊達市開拓記念館。来年度に後継施設である「だて歴史文化ミュージアム」が開館するのに伴い、今年11月末までの開館となる

伊達市開拓記念館
北海道伊達市梅本町61番地2
TEL:0142-23-2061
開館/9:00〜17:00
休館/無休(新ミュージアム準備のため2017年11月で展示終了)

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