札幌の小学校の修学旅行の行き先は、いまも昔も洞爺湖温泉が定番だ。札幌市教育委員会は90年代の末に、全行程の距離の枠を400キロから500キロに広げたので大雪方面なども可能になったが、洞爺湖エリアは、50年前も現在もやはり主役のひとつ。少子化や選択肢の広がりから微減傾向にあるものの、洞爺湖観光協会によれば近年のこのエリアには、小学校から本州以南の高校まで、年間1万4千人ほどの修学旅行生の宿泊があるという。
日本山岳会を立ち上げた槇有恒(1894-1989)の自伝『わたしの山旅』の中に、1910(明治43)年秋、噴火したすぐあとの有珠山に登ったという一節があってずっと気になっていた。一面泥流まみれで、あちこちにまだ熱いところがあったという。そのとき仙台第二中学校の学生だった槇は、「山でひとりの男に出会ったが温泉を探していると語っていた。今日(※註/1968年)洞爺湖温泉は温泉街になっているが、その男が発見の幸運に恵まれたかは判らない」と書いている。この男はどんな人物だったのだろう。
『虻田町史』などによればこのときの噴火は45もの爆裂火口をつくり、巨大な噴煙と恐ろしい泥流を広げながら、四十三山(よそみやま)を生む。
昭和新山誕生の見届け人でありいわば敏腕マネージャーだった三松正夫の人生の集大成ともいえる三松正夫記念館の展示によれば、洞爺湖温泉のはじまりはこの噴火による上昇マグマで温泉が湧いたことにあった。壮瞥郵便局員だった22歳の三松はこのとき、現地調査に入った地震学者大森房吉の案内役を務めた。三松の『昭和新山物語』によれば、フカバ(やがて昭和新山ができる土地)にあって生活に重宝していた湧水が急に43℃にまで上がって人々を驚かせている。しかし湯温は3年ほどで下がってしまった。しばらくたって1917(大正6)年の初夏、三松がふたりの友人と断崖を降りて澄んだ洞爺湖を眺めていると岸辺の湖底から泡が流れていた。そういえば足元が暖かい。そばの大きな岩を動かしてみるとはたして、ボコボコと熱いお湯が湧き出した。これが洞爺湖温泉のはじまりだ。もともと3人は、このあたりに温泉が湧き出したといううわさを確かめるために湖畔に近づいたのだった。そしてこの字床丹(あざトコタン)の地に竜湖館という温泉宿を開く。いまの洞爺温泉ホテル華美(はなび)の駐車場のあたりだという。床丹はアイヌ語で、ト・コタン(沼の集落)の意味だ。
槇有恒が出会ったのは三松たちではなかったのだろう。しかし有珠山が噴火して温泉が湧き出すかもしれないと考えて男たちが山に入っていたことは、洞爺湖温泉と有珠山の深いつながりの一端を実感させる。
三松らが見つけた湧き出しについて、人々は前の経験があるので半信半疑だったが、やがて湯温も下がらないようだと見当がついた4、5年後には旅館が建ちはじめた。1920年代初頭の話だ。
三松も温泉でひと財産つくったのだろうか? 三松の最晩年のインタビューが載っている『わたしの北海道』(上田満男)で彼は、「どうもそういうのは興味がないんで、湯元の権利もどうなりましたかおぼえてないですね」と述懐している。
三松正夫(1888-1977)は、壮瞥郵便局長を務めながら、昭和新山の激烈な誕生ぶりを克明に記録した在野の火山研究家として知られる。新山が産声を上げたのは1943(昭和18)年の暮れ。麦畑を底から激しく鳴動させる地震が頻発して、やがて大小17回におよぶ激しい火山活動がつづいた。活動がほぼ停止したのは太平洋戦争が終わった直後、1945年の秋だ。その間2年も経たないうちに、400mを超える山(現在は398 m)があれよあれよとできてしまったのだ。戦時中だったためにこの驚異のできごとは当局によって厳重に伏せられ、世界の大ニュースになるはずの大事件も、地元と周辺の人々が知るばかりだった。
戦況の雲行きが日に日にあやしくなっていく中で、三松は突然噴煙を噴き出して活動をはじめた昭和新山に、いても立ってもいられずに通い続けた。明治末の有珠山噴火を体験していた彼は、地域の安全や科学の進歩のために、まずは何をおいても正確で客観的な記録を残さなければならないという思いに突き動かされたのだ。こうした発想や行動の大胆さには驚くほかない。
調査では、火口近くにいるときにいきなり爆発があって岩石が降り注いできたり、熱い地面で何足も靴をつぶしたり、崩れる火山灰に巻き込まれかけて死を覚悟したこともあった。郵便局舎の裏にテグス(糸)を横に何本も張り、それを基準にして山の隆起のようすを正確にスケッチしつづけた。一般人にはフィルムが手に入らない戦時下であり専門の観測機器もないので、独自に編み出した定点観測の手法だった。やがて彼は火山誕生の経過を一枚の図面に落とし込む。のちに世界の研究者たちを驚かせたミマツダイヤグラムだ。また、毎日地域をまわる郵便配達員から集める、大地の小さな変化などの報告も三松の調査の精度と価値を高めた。
さらに信じられないことに、火山活動が落ち着いた1945(昭和20)年の秋、三松は、私財をなげうってこの山をまるごと買い取ってしまう。42ha。このとき三松は、世界でただひとりの活火山所有者となった。
日々の食料にもこと欠く戦後の混乱期に、用意したのは2万8千円。ほぼ全財産だったという。硫黄の盗掘から山を守りたかったというのが三松が繰り返し述べた理由だが、誕生から急成長の過程が世界ではじめて正確に観測された隆起型火山の標本であることの価値を確信しながら、同時に地域のリーダーのひとりとして、畑を失ってしまった農民たちを助けるためだった、とも言われている。また、戦地でふたりの息子を亡くした三松にとって、この山がもう自分の息子のような存在になっていた、と考える人もいる。
昭和新山という名前がついたのは、実は1960(昭和35)年。それまでは有珠新山などと呼ばれていた。この年に山が特別天然記念物に指定されたとき、研究者たちは所有者であり超人的な観察者であった三松に、新たな名前をつけることをすすめた。その気になれば三松山とでもつけられたのだが、彼はそうしない。研究の師である田中館秀三東北大学教授にネーミングを依頼して、明治43年噴火の四十三山(よそみやま)を明治新山、こちらを昭和新山と呼ぶのが良い、と応えてもらった。
三松正夫記念館の展示でとりわけ印象深いのが、火山にちなむ資料とは別にあるたくさんの書画だ。どれもまるで富岡鉄斎らの文人画の系譜につらなるような威風に満ちている。三松正夫のことを単に、火山に狂おしく熱中したアマチュア研究者だと思っていた僕は、ただ驚くばかりだった。
三松の祖父三松林太郎は延岡藩の小藩である内藤藩の士族で、幕末の激動期に藩主の参謀として重きをなした。明治になって宮崎県の官吏となるが、新政府への士族の最後の反抗である西南の役(1877年)が運命を変えてしまう。旧延岡藩一門は延岡隊として薩摩軍に加わったために、戦いが西郷隆盛の自決に終わると、逆徒の汚名とともに謹慎の身となってしまったのだ。
父の禮太郎は林太郎の親しい知人であった福澤諭吉門下となり、西南の役のあとは「中央」での栄達をめざすのではなく、北海道という北の「辺境」の開拓使に奉職。手宮と札幌のあいだに幌内鉄道が開通した1880(明治13)年には、建設がはじまった西紋鼈(にしもんべつ)製糖所の会計課長として伊達村(現・伊達市)に赴任した。三松正夫記念館の現館長である三松三朗の『火山一代』ではこの着任を、林太郎は「西南の役の戦後処理に示された明治天皇の高徳に対する謝恩の心から、わが子を新国家に捧げる」気持ちが強かったのではないか、と推しはかっている。西紋鼈(現・伊達紋別)製糖所の所長は、アメリカ帰りの開拓使幹部でのちに札幌農学校校長を務め、退役後は胆振(いぶり)管内の徳舜瞥(とくしゅんべつ)や室蘭に農場を拓いた、薩摩出身の橋口文蔵だ。
こうした三松家の5男として生まれ育った正夫は青年時代に、洞爺村に滞在していた土佐派の絵師佐藤春玉や、南画の小室翠雲などに絵の手ほどきを受け、のちに化雪(華雪とも)と号した。三松正夫は、郵便局長や火山研究家である前にまず、目先の損得や感情にしばられることなく歴史の風雪に磨かれた徳や智を重んじる、武家の精神文化を体現するような近代人だったのだと思う。幕末の動乱から明治の士族の乱、そして日本に近代を立ち上げるための最初の植民地となった北海道の開拓。さらには製糖や火山学など、伝統のない新開地北海道であればこそ盛んに取り入れられた欧米の科学技術—。三松正夫の肉体には、こうした歴史の裾野となった教養が深く脈々と息づいていた。近代日本の勝ち組代表である薩摩への屈折した思いを抱える負け組の子孫である道産子にとって、幕末から明治にいたる三松家の陰影に富んだあゆみは、近代史のステレオタイプのイメージを解きほぐす、複雑な現実をいきいきと指し示している。そのことの意味をおぼろげながらわかる年齢になったいま、有珠山や昭和新山は、僕たちにまた新たに深く多様な表情を見せてくれるだろう。
三松正夫が89年の生涯を終えたのは、夏に有珠山が大噴火してまだ終息が見えなかった、1977(昭和52)年の暮れだった。
三松正夫記念館(昭和新山資料館)
北海道有珠郡壮瞥町字昭和新山184-12
TEL:0142-75-2365
開館/8:00〜17:00
休館/1月・3月は不定休
洞爺湖町火山科学館
北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉142-5
TEL:0142-75-2555
開館/9:00〜17:00
休館/12月31日・1月1日