直径ほぼ10キロで周囲約43キロ。湖畔道がフルマラソンの距離に近い円い洞爺湖の東には、さらに円い倶多楽(クッタラ)湖がある。長大な海岸線をもつ噴火湾(別名内浦湾)は、直径約50キロ。渡島半島に西から抱かれてみごとに円い。洞爺湖一帯の地勢には、どうやら「円」をめぐる主題が埋め込まれている。洞爺湖や倶多楽湖の円さは、太古に激しく繰り返された火山活動のカルデラに由来するものだ。
円い噴火湾には、冬から春、流氷で冷やされて千島列島から南下する千島海流が反時計まわりに入る。そして夏からは、日本海を北上する対馬暖流の支流が勢いを増しながら津軽海峡を東進して時計まわりに入る。だから大づかみで言えば、秋から冬の噴火湾の底は夏の津軽暖流に満たされて暖かく(表層には塩分濃度の薄い千島海流が入る)、春から夏へは冷たい千島海流が全体に混ざって水温はほど良く低くなる。有史以前から暖流と寒流がぶつかる湾口は豊かな潮目で、沿岸は現在のように暮らしやすいおだやかな気候に恵まれていたのだろう。
しかし時間のスケールを一気に広げれば、一帯は繰り返し大災害に見舞われてきた。そもそも噴火湾という名前は、18世紀末に極東調査にはるばるやってきた英国帆船の艦長ウィリアム・ロバート・ブロートンが、湾を囲んで噴煙をあげる火山群(恵山、駒ヶ岳、有珠山、樽前山など)を見たことがはじまりだ。ここはvolcano bay。ブロートンはそう記(しる)した。
そしてブロートンのさらに百年以上前、17世紀半ばから数十年間の噴火湾は、特段に苛烈な環境だったことがわかっている。
そのころ和人たちが暮らした土地(和人地)は、渡島半島の南西端にある松前(松前藩の拠点)を中心に、西は日本海側の熊石(現・八雲町)、東は津軽海峡に面した汐首岬(現・函館市)まで。そこから奥地はアイヌ民族が暮らす蝦夷地と呼ばれ、噴火湾は東西のうち東蝦夷地に分けられた。この時代の松前藩の経済は、昆布やイリコ(干しナマコ)などの海産物やクマなどの獣皮、鷹や砂金といった蝦夷地ならではの特産物をアイヌとの交易で手に入れ、それらを移出して成り立っていた。アイヌコミュニティの独立した地位も、後代よりはるかに強く高かったといわれる。
17世紀の大災害史はまず、1640(寛永17)年の夏、噴火湾南岸にある駒ヶ岳の大噴火からはじまった。山頂が崩れて湾になだれ込んだので大津波が起こり、松前藩や津軽藩の記録によれば、百隻あまりの舟が巻き込まれて700人もの死者が出たという。対岸の有珠を襲った津波は善光寺如来堂(伊達市有珠町)の後山まで来たが、不思議なことに堂は無事だった。津波堆積物の研究からそのことがわかっている。降灰は2日つづき、80キロ以上離れた松前でも1メートル近い降灰があった。
さらに1656(明暦2)年と1658(万治元)年には天然痘が流行。この病に対して和人よりも抵抗力がなかったアイヌたちの多くは倒れ、残された者は家を焼きコタン(集落)を捨てて逃げ惑った。
そして1663(寛文3)年の夏、有珠山が大噴火を起こす。一帯のコタンは火山灰に埋まってしまった。降灰や軽石まじりの噴出物で5キロ沖までが陸地にように見えたという記録が松前藩の文書に残っている。津軽でも灰で空は暗黒となり、鳴動は庄内まで響いた。虻田、伊達、白老あたりまで1メートル以上の灰が積もり、『伊達市史』には、「恐らく有珠地区は一時無人の荒野と化したであろう」と書かれてある。
こうした事態にさらにとどめを刺したのは、1667(寛文7)年の樽前山の大噴火だ。これも津軽までを鳴動させる規模で、噴煙は成層圏(高さ10〜50キロ)にまで達した。膨大に吹き上げられた火山灰は、日高山脈を越えて十勝や釧路にまで降っている。この火山灰はTa-b(樽前b)と呼ばれ、北海道の地層年代を調査するときの指標のひとつになっている。
駒ヶ岳、有珠山、そして樽前山。3つの火の山はわずか27年のあいだに大噴火を連ねた。このあいだに天然痘も猖獗(しょうけつ)を極めたのだが、構図を広げれば、実はこのころは小氷期と呼ばれる気候の寒冷期。蝦夷地はもとより列島各地で凶作や飢饉が頻発した時期でもあった。米や味噌、酒など主要な食糧をはじめ多くの生活物資を本州から買いつけていた松前藩への影響もさぞや大きかっただろう。さらにいえばその傾向は世界的なもので、ヨーロッパでは凶作や食糧危機が起こったことに加えてペストが流行。その上に魔女狩りや宗教戦争が人々を不安の深みに陥れたのだった。日本では幕府のキリスト教禁教政策が厳しさを増していったころだが、キリスト教世界の人々にとって17世紀後半は、世界の終わりと再生を予言する黙示録的な世界観が支配した時代といえるだろう。
噴火湾ではこうした度重なる自然災害で多くのいのちが奪われ、人心は傷つき、磯や山野は荒れ果てた。アイヌが獲る産物を元手とする松前藩の財政も行き詰まるが、そのために各地の交易管理の場(「場所」)では、アイヌに対する強欲な收奪がエスカレートしていく。そうした圧力が、松前藩に対するアイヌ民族最大の蜂起であるシャクシャインの戦い(1669年)の導火線となるのだった。『伊達市史』ではこのいきさつを、「度重なる自然災害のツケを全てアイヌ人に回していった松前藩こそ元凶と云ってよいであろう」、と述べている。和睦の酒宴を騙(かた)った場でシャクシャインを謀殺して戦いにけりをつけた松前藩だが、以後アイヌ民族に対する支配は一段と強化されていく。北海道史ではこうした動向を、17世紀終わりごろから、アイヌは和人の「交易相手」から漁場の「労務者」へと変質させられていった、と記(しる)すことになる。
噴火湾にもうひとつの「円」を置いてみよう。天台密教を修めた僧侶の円空(1632-1695)の道行きだ。死後百年あまり経って出版された『近世畸人伝』は円空の項で、美濃の人円空は富士山や加賀の白山などで修業を重ねたあと「蝦夷の地に渡り、仏の道しらぬ所にて、法も説て化度せられければ(仏法を説いて衆生を教え導いたので)」、蝦夷地の人々は今も彼を今釈迦と呼んで尊敬を忘れない、と書いている。円空は霊地を求めて旅をつづけ、そこに入れば籠(こ)もって鉈(なた)一丁で仏像を刻んで残していった。若き日に、生涯に12万体の仏像を彫り、遠国(おんごく)にまであまねく祀るという心願を立てたという。
円空が蝦夷地の松前に渡ったのは1666(寛文6)年。2年以上滞在して、西蝦夷地(日本海側)では霊場の太田山(太田権現・現せたな町)まで北上。東蝦夷地では有珠山をめざした。アイヌ語を解する和人の案内役がいたのだろう。つねに噴煙を上げて活動をつづける有珠山は、アイヌ民族にとってとりわけ畏怖と崇拝の対象だった。一般にアイヌ民族にとって聖なる山の頂は他界への入り口(他界から見れば出口)であり、むやみに登ることのできない場所だったらしい。
円空が歩いたのは、大噴火のわずか3年後だ。復興にはほど遠かっただろう浦々をたどりながら、円空は人心を鎮(しず)めるように仏像を彫って安置していった。その125年後、円空の鎮魂の足跡を追うように東西の蝦夷地を歩いた国学者菅江真澄は、有珠善光寺(伊達市)などで5体の円空仏を見たことを『えぞのてぶり』に書き残している。
さて1663(寛文3)年の有珠山大噴火のようすを、僕たちが具体的に思い浮かべることができる資料がひとつある。噴火湾を望む高台にある、入江貝塚館(洞爺湖町)の巨大な地層のはぎ取り標本だ。入江貝塚は縄文の前半から後半にかけての3つの大きな貝塚で、19体もの人骨も発掘されている。標本では大地の数千年の歴史を凝縮した地層の重なりの最上部近くで、1663年に有珠山から吐き出された膨大な火山灰が数十センチにわたって土になっている。標本が作られたのは20世紀末だから、降り積もって300年以上経った火山灰はすでに十分に土壌に圧縮されていた。噴火直後の途方もない厚さを想像しながら、なおそれがそれ以前の地層に比べて驚くべき量をもっていることに息を飲む。
江戸時代後期の『近世畸人伝』で蝦夷地は、「仏の道しらぬ所」だった。しかし言うまでもなく、そこには江戸とは別の歴史空間があり、土地に根ざした人々の固有の人生が幾重にも連なり重なり合っていた。現代の僕たちは、いわゆる「中央」に対して「辺境」を配置したがるこの非対称の構図自体を意識しながら、噴火湾をゆっくりと歩くことができる。
湾の北部沿岸には、ウス(ウシヨロ・有珠)、アブタ(虻田)、リブンゲツプ(礼文華)など、古くからアイヌのコタン(集落)があった。有珠山というまれに見る活火山のふもとでありながら、和人が知らない太古からアイヌの人々はこの地の豊かさに惹かれつづけた。そのことの意味を考えてみたくなる。
有珠湾のほとりにある有珠聖公会の教会バチェラー夫妻記念堂を守り暮らしたバチェラー八重子(1884-1962)は、アイヌ民族のキリスト教伝道者で歌人だ。八重子が故郷である有珠を詠(よ)んだ歌でこの節を終わろう。
「幼(をさな)ごろ 恐ろしかりし 有珠嶽(だけ)に 今は こよなき 親しみぞもつ」
入江・高砂貝塚館
北海道虻田郡洞爺湖町高砂町44
TEL:0142-75-2365
開館/9:00〜17:00
休館/毎週月曜日、祝日の翌日
入江・高砂貝塚公園
北海道虻田郡洞爺湖町入江190-31
TEL:0142-74-3010(洞爺湖町教育委員会社会教育課)