札幌の母なる川とも呼ばれる豊平川。定山渓を下った流れが扇状地を広げていく手前に位置する十五島公園(南区)は、古くから炊事遠足の人気スポットだ。個人的にもここは僕の人生最初の記憶にある公園で、川の浅瀬に点在する石を跳んで遊んでいて、すべってころんで頭を打った。だから子どものころは、そこだけ髪の毛が生えなかったことを覚えている。それは50年以上前の話。しかしこの「十五」という、不思議といえば不思議な名前のいわれを知ったのは、ほんの数年前だった。
「十五」にどんな意味があるのか。教えてくれたのは、石狩市郷土研究会のリーダーである村山耀一さんだった。村山さんは、能登から松前に渡って近世蝦夷地の大商人となった、阿部屋・村山傳兵衞の子孫にあたる。
「国道230号がオカバルシ川を渡る橋は丸重吾橋(まるじゅうごばし)です。ここと、その近くにある十五島公園の十五は、ともに阿部屋の屋号『まるじゅうご』に由来するといわれています」
どういうことだろう。
時は幕末。ペリー来航にはじまる外圧を受けて開国を余儀なくされた幕府は、北方への守りを固めるために蝦夷地を松前藩から取り上げて直轄に踏み込んだ(1855年〜1868年)。松前藩では、直領である和人地とアイヌが暮らす蝦夷地をはっきりと分け隔て、和人が蝦夷地に定住することを禁じていた。その上で蝦夷地の産物を内地と交易することで藩を経営していたのだが、幕府はこのやり方を根本的に改める。ロシアへの備えのために、小規模ながら和人を蝦夷地に入植させて開拓を進めていこうとしたのだ。
阿部屋・村山家は代々傳兵衞を名乗ったが、この激動期に当主を務めたのは、6代目の村山傳兵衞。6代目は幕府から、ハッサムやサッポロを経由して銭函と千歳を結ぶ道路の開削を命じられた。同じ時期、場所(アイヌとの交易所)の経営を請け負うほかの商人たちの手で石狩以北の日本海沿岸部には濃昼(ごきびる)山道や増毛山道などが開かれたが、これも同じ施策だ。幕府は場所やニシンの漁場を陸路で結んで交通インフラの整備を計った。そのとき幕府にとって、土地の人と資源を知り尽くして経済力のある請負商人たちは、使いでのある駒となった。蝦夷地の請負商人たちは、松前に本店を構え、奥地各地に出先を持っている。彼らはそれぞれの土地で、漁業や林業に加え、道路などのインフラ整備や治安維持、災害復旧、疫病対策など幅広い分野にノウハウを持っていた。それはつまり、在地社会の経営そのものだ。
北海道の近世史では、「場所請負商人=悪役」という紋切り型の構図が語られがちだ。
松前藩と共に、サケやニシン漁などの労働力としてアイヌを搾取して際限なく私腹を肥やした強欲者、というわけだ。本店の命を受け、出稼ぎではなく、厳冬期に越年して土地に根を下ろした和人の番人たちの中には、確かにいかつい用心棒のように荒っぽい男たちもいただろう。請負商人の代表格には、石狩川河口に元小屋(本拠地)をもって石狩川水系の経済を広く請け負っていた村山家が上げられることも多い。しかし村山さんは、村山家のことがことさら問題視されたのは、「記録魔」であった松浦武四郎の記述が大きく影響している、と考えている。同時代の請負商人たちの中で、村山家がことさら不条理な経営をしたわけではない。
「武四郎の功績が持ち上げられるほど、村山家の評判は下がってしまう。そんな思いをずっとしてきました(笑)」
「十五」にもどろう。
幕末のこの時期。丸重吾橋が架かる藤野(札幌市南区)には、阿部屋が豊平川支流のオカバルシ川流域の沢に入っていたという言い伝えがある。船の底板に使うカツラや、櫂(かい)や櫓(ろ)をつくるヤチダモなどを伐り出していたという。オカバルシ川が豊平川に合流するあたりに造材小屋があったようだ。銭函と千歳を結ぶ道路の開削に使う道具や資材も、この流域の木材が材料になったのだろうか。そしてそうした材には「丸十五」の極印が押されていた。だから明治になっても人々は、伐採が行われていた沢を「マルジュウゴ」の沢と呼びつづけた。オカバルシ川は、いまは石山と藤野の境界となっている。
ではそもそも「十五」にはどんな意味があったのだろう。18世紀初頭、松前で阿部屋を起こした初代傳兵衞は、そのとき20代半ば。10代目にあたる村山さんによれば、初代傳兵衞はこう誓ったという。
「夢は大きく、いつかは15隻の船(弁財船)を持って大きな商売をしてみせる」
しかし村山家に全盛期をもたらした3代目のころ(1757〜1800)、阿部屋は初代の夢をはるかに超えて、蝦夷地で35もの場所を動かし、102隻の船を所有して蝦夷と本州を結ぶ大きなビジネスを展開するまでになっていた。この時期の「日本長者鑑(かがみ)」で、西の鴻池、東の阿部屋と称された時代だ。
豊平川では、さらに上流域で造材が行われていたことがわかっている。時代は、阿部屋がオカバルシ川流域に入ったさらに百年ほど前だ。村山耀一さんの研究などをもとになぞってみよう。
18 世紀後半の石狩や道央のことがわかる絵図に、前回もふれた「飛騨屋石狩山伐木図」がある。『北海道史・第一』(1918年)で見ることができるのだが、千歳川と、そこに合流して石狩川に下る漁川(いざりがわ)が大きく描かれ、それぞれの上流域には、7、8軒からなる作業小屋の集落がある。またさらに下流で石狩川に注ぐサッポロ川の上流にもいくつもの小屋が記され、石狩川との合流点近くには「舟場」の文字も見える。サッポロ川とは、いまの豊平川のことだ。
この時代にこうした奥地で造林に取り組んでいたのは、本来は廻船業の阿部屋ではなく、餅は餅屋、材木商の飛騨屋だった。近世日本の有力な材木商だ。阿部屋同様この時代の飛騨屋も盛業をきわめたが、リーダーは三代目久兵衛。久兵衛は1年間600両の運上金を松前藩に納めて、毎年1万2千石(約3,336立方メートル)のエゾマツ・トドマツを伐り出したという。これらはみな石狩川を流送して河口の木場に集められ、江戸や大坂などに出荷された。河口の木場については前回でふれた通りだ。
飛騨の国(現・岐阜県北部)出身の材木商武川久兵衛倍行(まさゆき)が起こした飛騨屋は、拠点であった下北半島の大畑(南部大畑)から1702(元禄15)年に松前に渡り、蝦夷地の山の調査を進めながら伐採を松前藩から請負う事業に進出していった。江戸では、赤穂浪士の討ち入りがあったころだが、材木商にとって、そのころの蝦夷地の山は手つかずの宝の山に見えたことだろう。そして松前藩にとっても、木材はニシンと並ぶ有力な財源となっていた。
飛騨屋は南部藩の大畑(下北半島)から連れてくる百人以上の杣夫(そまふ)を動かして蝦夷地の山に入り、松前藩と江戸や大坂の材木商に高く評価される実績を重ねていく。初代、2代と順風に恵まれていたが、3代が漁川や豊平川の伐木を請け負ってさらに事業を拡大した矢先、南部大畑店の支配人が店の大金を使い込み、解雇されるという事件が起こる(1766年)。
しかし追放された支配人は、今度は松前藩の勘定奉行らと結託して飛騨屋からそれらの山を奪おうと暗躍してみせた。飛騨屋は運上金を上乗せしたり献金をして必死に契約を守ろうとしたが、結局は請負を藩に取り上げられてしまう。松前藩はこれを江戸の新宮屋に請け負わせ、今度は新宮屋が十数年にわたって豊平川や漁川の上流域に入った。
1788(天明8)年、新宮屋の契約が終わると、藩はつぎに阿部屋を指名する。8年の請負契約だったが、蝦夷地各地の場所(交易所)を基盤に廻船業をなりわいとする阿部屋にとって、山は畑ちがいの分野だった。「飛騨屋石狩山伐木図」に記されている漁川や豊平川上流域の小屋や舟場などを、阿部屋も使ったことだろう。
沢筋で伐採した木々は、そこで枝打ちされて丸太になり、谷を出され、土場に集められて木挽き(製材)される。丸太材、榑木(くれき・芯を取って切り口を扇のように六つ割り程度にした木材)、角材、平角材などにしたものが流され、下流の繋留場に向かう。それらは流れが広くなる流域や河口で集められて筏(いかだ)に組まれた。河口域では樹皮を綱に縒(よ)って作られた強靭な留め縄が張られ、鳶口(とびぐち)をたくみに振るって材が選り分けられる。たくさんの分野にまたがる、厳しい自然を相手にした高度な技術と胆力のいる仕事だ。
石狩市教育委員会の学芸員工藤義衛(ともえ)さんに、『日本近世生活絵引』という本を教えていただいた。この連載の第一回で掲載した「松前桧山屏風 乾」に描かれている流送のようすも、職種や道具やさまざまな材木の名称にいたるまで、細かく解説されてある。
蝦夷地の林業は、ニシン漁とその加工や流通に比べて資料も少なく、研究の蓄積も多くないという。ふるさとを遠く離れた男たちが、命の危険と背中合わせの日々に何を祈り何にすがって暮らしていたのかは、現代人の想像を超えている。一方でさまざまな技術や道具のひとつひとつには、現在に直結する知恵の体系が脈打っていたはずだ。この島で暮らしてきた人々のことを百年単位でもっとしっかりと知ることができれば、僕たちは北海道へのさらに深く広い視座を持つことができる。