全国の府県ではしばしば、「遠く雄飛して北海道開拓に尽くした郷土の偉人」という人物紹介枠がある。例えば福岡県の月形潔(1847-1894)。福岡から見る月形は、福岡藩の要職を務めたあと司法省・内務省をへて北海道に渡り、樺戸・上川・雨竜の三郡長として開拓地の基礎づくりに取り組んだ先人で、現在も月形町(空知管内)にその名を残している傑物。一方で北海道での月形は、自由民権運動の政治犯などの囚徒を酷使した開拓最初期の苛烈な土木工事の責任者(樺戸集治監典獄)として、どちらかといえば歴史の暗部におさまりがちな人物だ。
同じ福岡出身の白仁武(しらにたけし・1863-1941)は、内務官僚から北海道参事官となり、その時代に「北海道小学読本」を編集した教育の功労者で、のちに栃木県知事、官営八幡製鉄所所長、日本郵船社長までを務めた政財界の寵児。北海道時代の白仁は、空知川沿いに入植地を探そうとした国木田独歩にアドバイスをしたことが知られるが、しかし道内でスポットが当てられる白仁の仕事は、東京の内務省に戻って深く関わった、悪名高い北海道旧土人保護法制定にちなむものだ。
この連載で出てくる飛騨出身の大商人飛騨屋久兵衛も、郷里と北海道では光の当てられ方が違うようだ。北海道で飛騨屋久兵衛はまず、和人に対する近世アイヌの最後の戦いの当事者(4代の時代)だが、初代久兵衛の郷里では、北海道開拓の礎(いしずえ)となった歴史上の人物として位置づけられているという。これらはもちろん、どれも間違いではない。見る側の立ち位置がちがえば、歴史上の人物はいくつもの顔をもつ複雑な人間として立ち現れてくるからだ。
北海道の林業史に欠かせない飛騨屋のあゆみの概略を、三ツ木芳夫札幌大学名誉教授や村山耀一さん(石狩市郷土研究会会長)の研究などをもとになぞってみよう。
山と海に及ぶ飛騨屋の事業は、蝦夷地を主な舞台に4代にわたって繰り広げられた。創業者武川久兵衛(1674-1728)は、飛騨の国、現在の岐阜県下呂町に生まれた材木商。通り名は飛騨屋久兵衛で、父は林業を生業とする村の長だった。山林の国であった飛騨で事業をはじめた久兵衛だったが、ほどなく飛騨は天領(幕府直轄領)となり、年貢が高騰した上に自由な居場所を失う。そこで江戸に出て、材木商栖原(すはら)屋と関係を深めた。栖原屋はもともと紀伊の漁家で、のちに同じく蝦夷地で成功を収めることになる大店(おおだな)だ。久兵衛は5年ほど雌伏ののち、1700(元禄13)年に下北半島(南部藩領地の大畑)に進出して、南部藩のヒバの造材請負をはじめた。
17世紀後半。東北と江戸を結ぶ東廻り(太平洋)の航路ができて、下北半島は関西方面への西廻り(日本海)と江戸に向けた東廻りというふたつの航路をもつ、本州最北の重要拠点になっていた。しかし南部の山林はすでに伐木が進み、留山(伐採禁止)となっていく。そこで目をつけたのが、津軽海峡の対岸にある蝦夷地だった。
元禄期は江戸の経済力が拡張した時期。幕府を動かしていた老中田沼意次が長崎貿易を振興させた。中国に輸出されたのは、煎海鼠(いりこ・干しナマコ)や干しアワビなど蝦夷地の海産物だ。新興商人たちも台頭した。そのなかで1702(元禄15)年、久兵衛はいよいよ松前に進出する。先行する関西系の商人たちと競いながら松前藩と契約を結び、ヒノキアスナロを造材して江戸の木材市場に送ることに成功した。尻別川上流や臼山(有珠山)周辺に入ったことも知られている。
2代も尻別川上流でエゾマツの造材を請け負った。そして3代目が活躍する1740年代以降。飛騨屋は尻別川や沙流川の上流域や厚岸などでエゾマツを伐り出した。1750年代に入ると漁川(いざりがわ)や豊平川上流域にも斧を入れる。連載2回目にふれたように、これらの山で作った材木は石狩川河口の木場に集められ、江戸や大坂に送られたのだった。
大事件が起こるのは3代の時代だ。このころ幕府を動かしていた老中田沼意次は、貿易と合わせて、ロシアに備えるために蝦夷地の開発にも意欲を燃やしていた。
1710年代。ロシアが千島列島に進出をはじめる。ラッコやクロテンの毛皮が目的だった。松前藩はしばらく経ってそのことを知るが、ロシアがアイヌとの交易と領土拡大を狙っている事態は、ことの重大さのあまり、幕府には報告できなかった。しかし仙台藩の藩医工藤兵助が長崎でロシアの千島南下を知り、警鐘を鳴らそうと『赤蝦夷風説考』(1782年)を著わす。田沼はこれに注目して、最上徳内らの北方調査が動き出すことになった。「中央」に蝦夷地の実情が少しずつ知られていく。日本が欧米列強に対して開国を余儀なくされる幕末は、このころ、17世紀後半に蝦夷地ではじまっていたといえるだろう。
先にふれたように3代目飛騨屋久兵衛は、宝暦年間(1751-1764)には漁川や豊平川の上流域でエゾマツなどの造材を請け負っていた。しかしそんなころ、飛騨屋の南部大畑(下北)の支配人が3200両もの使い込みをしていたことが発覚する。いまでいえば億単位の横領で、この支配人嘉右衛門は即刻解雇された。飛騨屋は江戸、大阪、京都、そして大畑や秋田、松前、宗谷に支店を展開していたが、全体を統括していたのが大畑店だった。身を隠すかと思われたこの支配人だったが、なんと逆に反旗をひるがえす。松前に渡って藩の勘定奉行を賄賂で籠絡(ろうらく)してみせたのだ。飛騨屋も対抗していったんは営業を続けたが、元支配人が次々に仕掛ける策略に対抗しきれず、ついに1769(明和6)年には造材の請負事業をすべて廃止する事態にまで追い込まれてしまった。
ところが請負を奪った元支配人の方もなかなか利益を上げられず、石狩などの造材の請負は江戸の新宮屋、そして松前の阿部屋へと替えられていったことは前回ふれた通りだ。
支配人嘉右衛門はいったいなぜ前代未聞の不正に走り、あげくに厚い恩のある主人たちに全面戦争をしかけたのだろうか。札幌大学女子短期大学部紀要などを舞台に飛騨屋の研究に長く取り組んできた三ツ木芳夫札幌大学名誉教授も、いまだ詳しいことはわからず、これからの研究の課題だと述べている(「飛騨屋の事業戦略展開に関する一考察」2004)。
伐木・造材の請負事業を廃止せざるを得なかった飛騨屋だったが、そこに至るまでに松前藩への膨大な貸付があった。額は8千両を超えていたという。そこで藩は、厚岸や霧多布、国後場所といった奥蝦夷地の請負を飛騨屋に担わせて、その利益で負債を相殺させようと図った。ほどなくしてこれに宗谷場所も加わる。山から海への事業の大転換。以後飛騨屋の本業は、サケやニシンを獲って肥料の〆粕を生産することになった。林業を廃業せざるを得なかった飛騨屋は、松前から遠く離れた蝦夷の最奥地で畑違いの場所請負商人となっていくわけだ。一方で元支配人嘉右衛門は、松前藩になんと士分(武士の身分)で召し抱えられていた。その上、藩を後ろ盾にして飛騨屋へのいっそうの妨害を図ったため、飛騨屋は幕府に訴えまで起こしている。また1778(安永7)年には霧多布場所のノッカマップにロシア船が現れた。千島列島を着実に南下してアイヌとの交易を図ってきたロシアが、ついに蝦夷地本島に到達して、日本との交易を求めてきたのだ。こうした激動の中で、三代目久兵衛は生涯を終えた。
激しい逆風の中で家督を継いだのが4代目久兵衛。そのころ列島の各地は厳しい冷害や天災に見舞われ、餓死者が続出した。いわゆる天明の大飢饉だ。拠点である大畑(下北)の人々を助けるために大量の米を買い集めるなど、飛騨屋の苦難と奮闘はつづく。1786(天明6)年には、幕府は自ら蝦夷地交易を直轄するために、飛騨屋には、経営する道東の3場所(厚岸・霧多布・国後)の1年間の休業が命じられた。こうした疾風怒濤の延長に、蝦夷地の近世史で最大級の事件が起こる。アイヌが飛騨屋の横暴に立ち上がった「クナシリ・メナシの戦い」だ。
「クナシリ・メナシの戦い」について、『アイヌの歴史と文化』(創童舎)や『37本のイナウ』(北海道出版企画センター)などをもとにラフなアウトラインを描いてみよう。
1789(寛政元)年の初夏、国後島のアイヌ41人が、飛騨屋の支配人や番人(現場監督)、通辞(アイヌ語通訳)などを次々に襲い、22人を殺害した。襲撃は根室海峡対岸のメナシ(現・羅臼町)にも向かい、メナシのアイヌも加わってさらに49人が殺される。合計71人もの和人たちが殺害されたのだ。犠牲になったのは、松前藩士一人のほか、松前や南部、津軽から出稼ぎに来ていた杣夫出身の男たちだ。クナシリ・メナシにいた和人で生き残ったのは4人だけだったという。なぜこんなことが起こったのだろう。
先にふれたようにこの時代の飛騨屋は、山から海への難しい事業転換に苦しみながら、本体では元支配人との抗争や天明の飢饉への対応に追われ、千島や根室海峡沿岸の出先ではロシアの進出に神経をすり減らしていた。そんな中で、1年間の休業が明けて漁獲と〆粕の生産をなんとしても増やさなければならなかったのが現地の支配人や番人だ。彼らは生産至上のあまり、アイヌに対して数々の非道を重ねていく。アイヌたちは自分たちの食糧にも事欠くありさまで、餓死者も出た。さらにはアイヌ女性に対する暴力や性的暴行が絶えなかった。彼らにとってこれ以上理不尽なことがあっただろうか。こうした不条理に対する激しい怒りがついに爆発したのが、この戦いだった。
事態を知った松前藩は鎮圧隊を根室半島北岸のノッカマップに送った。藩に協力的なアイヌの手で戦いに加わった300人以上のアイヌが集められ、殺害に直接関わったメンバー37人が処刑された。藩としては、飛騨屋の狼藉は許しがたいものの、殺人には法の定めをふるうという姿勢だった。幕府は松前藩を厳しく叱責して、藩は飛騨屋にすべての責任を追わせていく。
松前藩の家老であり絵師であった蠣崎波響が翌年描いた「夷酋列像」は、このとき藩に協力したアイヌのリーダー12名の特異な肖像群だ。ときの藩主で波響の叔父だった松前道広は、藩に功績のあった人物を顕彰するとともに、人々に勧善懲悪の教えを説くために制作を指示したという。またこれは、このような威風ある異形のリーダーたちを心服させているのが蝦夷地の松前藩であるという、本州向けのプロパガンダでもあった。
北海道史でクナシリ・メナシの戦いは、松前藩がアイヌ民族を完全に支配下におくことを決定づけた事件として位置づけられる。幕府にとっては、迫り来るロシアの脅威を目の当たりにして、列島の北方が風雲急を告げることを得心する事件となった。ノッカマップでは1974(昭和49)年から、毎年9月にすべての犠牲者のためにイチャルパ(供養祭)が行われている。
かつてメナシと呼ばれた土地(現・羅臼)からは、国後島がいつもすぐ対岸に見える。島の名前はアイヌ語のキナシリ(草・島)、あるいはクンネシリ(黒い島)に由来するという。後者を取れば、つまりエゾマツやトドマツが薄暗いほどうっそうと茂った島だ。しかしこの地で本来は材木商の飛騨屋が担ったのは主に、ニシンやサケ・マスから本州向けに肥料の〆粕を作ることだった。
「クナシリ・メナシの戦い」によって飛騨屋も人命に加えて途方もない損害を受け、ついには蝦夷地から撤退。下北の大畑の店も閉められた。このとき4代目は24歳。8千両を超える負債を負ったという。しかし郷里の飛騨で刻苦精励。ついにはこれを完済して、1827(文政10)年、63歳で生涯を閉じた。なんという苛烈な商人人生だったことだろう。
「クナシリ・メナシの戦い」が起こった1789年の世界史の重大事件といえばなんといっても、絶対王政に終止符を打って今日の民主主義の基盤が作られたフランス革命だ。またその前年の1778年は、イギリスから囚人を乗せた最初の船団がオーストラリアに到着した年。先住民のいる大陸を流刑地として一方的に選んだイギリスが、いよいよ植民をはじめる。激しい戦禍の末に1776年にアメリカがイギリスから独立を果たすと、大英帝国には新たな流刑地が必要になったのだった。飛騨屋の事業と「クナシリ・メナシの戦い」を歴史の地球儀に配置してみると、蝦夷地の近世がさらに立体的に見えてくる。
内地の郷里の英雄も、北海道史では悪役(ヒール)になる—。そんなシンプルな物語を綴るのがこの稿の狙いではない。4代にわたる飛騨屋久兵衛の蝦夷地でのビジネスを、単純に価値づけることなどできるはずもないからだ。例えば開拓使のリーダーとして札幌の町割りを最初に行った旧佐賀藩士の島義勇(1822-1874)を考えてみよう。島は札幌では市役所や北海道神宮に大きな銅像が立っている偉人だが、士族反乱(佐賀の乱・1874年)の首謀者のひとりとなったために、明治政府にとっては唾棄すべき国賊だった。さらには松浦武四郎の半生を、松前藩の不正からアイヌ民族を守ろうとしたヒーローだと捉えるのも、単純すぎるフィクションだろう。人間の歩みを長く記した土地で営まれるのは、幾重にも入り組んだ迷路のような、あるいは正面も裏面もない多面体になった歴史のかたまりだ。複雑きわまりない歴史のありようを、複雑きわまりないまま総体としてどのように受けとめることができるのか。その方法論が、僕たちに求められている。