
4月末の森林総合研究所林木育種センター北海道育種場の一角。シラカバの林床では、エゾエンゴサクが咲き競っていた
4月末の森林総合研究所林木育種センター北海道育種場の一角。シラカバの林床では、エゾエンゴサクが咲き競っていた
野幌森林公園は1968(昭和43)年、開道100年を記念して北海道立自然公園に指定された。園内の大部分が鳥獣保護区になっていて、国有林が約8割を占める。深くまで遊歩道が整備され、冬には歩くスキーでも人気だ。同じ記念事業で建てられた北海道百年記念塔のいのちはあっけなく尽きてしまったが、森の成り立ちの繫がりには、人間の時間をはるかに越える強さがある。
地域のあゆみは、年表や書物以前に、まず人々の回想の中に息づいているだろう。
北海道の植物学の先駆者である宮部金吾に学んだ舘脇操(森林生態学・1899-1976)に、「野幌の森」と題した美しいエッセイがある(「北方林業」1968Vol.20)。
そこで舘脇は、北海道帝国大学に入って野幌の森に足を踏み入れ始めた、大正半ばを回想する。最初の秋にはふたりの先輩と、現在とはちがって深い森の中にあった北海道林木育種場のところから澄んだ冷気の森に入り、「林間に紅葉を焚く風流」(酒をあたためながら紅葉を燃やすこと)を楽しんだ。白楽天の詩の一節、「林間煖酒焼紅葉」をなぞった一節だが、目的地に着く前、森の道を進むうちに馬で巡回してきた新島善直教授と行き会う。一同は、遊び半分で森に入ることを厳しく叱責されるか、と身をすくめた。しかし師は馬上で柔らかく微笑みながら、「火だけは気をつけて下さいね」、と静かに言ったという。
当時野幌林業試験場長を兼任していた新島は、幕府直参の長男として江戸の小石川に生まれ、東京帝国大学農科大学予科で学びドイツ留学のあと、札幌農学校の初代の森林学の教授となった人物。札幌の北一条教会を支える敬虔なクリスチャンでもあった。
雲の上にいるような泰斗との遭遇を回顧しながら舘脇は、「野幌の森林は私達学生や学究徒にとって野外学修のハイマート(※故郷)であり、研究の場であり、一般の人にとっても、詩情の散策地であった」、と書いている。
舘脇はさらに、初夏にかけて咲く数々のランを懐かしむ。そこにはキンセイラン、エゾエビネ、ササバギンラン、ユウシュンラン、アオチドリ、トケンラン、ツチアケビ、アケボノシュスラン、ヒメミヤマウズラなど20を超えるランが記され、「北大の連中はその種類に富む谷をオルヒデ・タール(蘭の谷)と呼んだ」、とある。100年以上あとのいま、残念ながら野幌の森の一角に、これほどまでのランの谷があったとは想像しづらいだろう。
現在の登満別にある、野幌森林公園の遊歩道案内図。左が北で、舘脇らは北端から森に入った。中心軸に中央線が通る
1926(大正15)年に北海道林業会が出版した「のっぽろ」にある、新島善直の随想「野幌の林から」も、四季を追ったすばらしい森の讃歌だ。
「のっぽろ」の出版の目的をめぐっては、のちに北海道林業のリーダーとなる当時40代の林常夫が序文で、これまでのように単に経済的な切り口で野幌の森を記述するのではなく、都市と人間にとっての、森林の形而上的な意味を考察したい、という意味の主旨を述べている。
新島のエッセイは、野幌駅からビートや除虫菊の畑のあいだを通って1キロ弱歩き、「野幌林業試験場視察道路入口」に立つところから始まる。「之から私は三千四百町歩(※約3,371ヘクタール)の原始林に足を踏み入れるのである」—。
大正末の時点でこの森は、現在の道立野幌森林公園よりも1.6倍ほど大きかったことがわかる。
新島はやがて大沢園地に続く急坂を下って、深い谷に入る。途中で咲き遅れた一穂(いっすい)のサルメンエビネが目につき、さらに進むとトケンラン、コケイランなどさまざまなラン科植物が出迎えてくれた。舘脇が書いたオルヒデ・タール(ランの谷)だ。
そこから登満別(とまんべつ)線の道を4キロほど進み、視察道路の終点である野幌林業試験場(1933年に北海道林業試験場と改称される)の事務室で一杯の茶を請うと、中央線をさらに北に歩む。森の脊梁(せきりょう)をなぞるこの道はかつてのシカの道にあたるが、野幌の森に親しんでいる人にとって新島の行程は、現在でもありありと浮かぶ道筋だ。やがて膝まで届くネマガリダケを分けて、数本のクリの大樹と向き合う。クリはこの一帯が日本の北限域だ。いまは「推定樹齢800年・昭和のクリ」というプレートが立つ大木が見られるが、当時は同様の樹がまわりに何本もあったのだろう。
1909(明治42)年に野幌志文別に建てられた野幌林業試験場庁舎(試験場開設は前年。「野幌林業試験場案内」1918年より)。庁舎は1927(昭和 2)年に江別町西野幌に新築移転した
晩春から初夏の花で新島が特筆するのが、トドマツの森に咲くツバメオモトだ。
静かな森の下に春を告げて咲いているしおらしい草花。サクラソウの艶麗な紅も、スミレの豊酵な香りもなく、百合科だが食糧となる鱗茎もない。さらにはオモトという名前だが鑑賞のために培養されることもなく、森の中に静かに咲いて散って見る人もいないのだが、新島は、ヤマザクラが爛漫と咲いて散り、ウメが香り高く咲きそろう春の日に、深山に隠れて咲くツバメオモトの気高さはどうだ、と嘆息する。富も名声も望まないが世捨て人のような寂しさもない、しみじみと親しみを覚える気品は、自然児が怖れも悲しみも知らずに生きている尊い風情だ、と愛でて、続ける。「れんげそうは野にありてこそ風情ある花なる如く、つばめおもとは森に咲き森に朽つべき運命の花である」
5月初旬の野幌森林公園に咲くツバメオモト。2024年
明治政府は、所有者不明の山林・原野は原則として官有とするという、無主地官有の方針によって全国に官有林(国有林)を囲い込んだ。北海道でも、現在の野幌森林公園をはじめとして広大な面積の官有林が設定された。先住のアイヌ民族には個人が土地を所有するという概念がなかったからだ。
また帝国憲法の発布を記念して1890(明治23)年には、野幌をはじめ北海道の官有林の半分近くが御料林となった。しかし拓殖事業を優先させるために1894(明治27)年には、野幌の森を含めてその三分の二あまりは開拓用地として北海道庁に下げ渡されている。野幌の森はふたたび官有林となる。
本特集の「北越殖民社と太々神楽」の稿でふれた、江別の草分けとなった団体のひとつ北越殖民社にとって、野幌の官有林は里山としてのさまざまな恵みの源泉でもあった。官の施業林として一部では冬期に択伐(成長した木を選んで適量伐る)が行われ、現金収入となる造材の仕事をもたらした。また薪や炭、用材の供給源となり、さらに米づくりの用水や、春秋には山菜をふんだんに提供してくれた。加えて、石狩湾から吹き込む冬の厳しい季節風から暮らしを守ってくれた。
豊かな水源でもある野幌の森の縁辺にはいくつもの灌漑池が作られた。登満別にある現在の原の池
しかし早くも明治30年代に、この森が危機に瀕する事態があった。
「野幌原始林物語」(叢書江別に生きる10)」では、北越殖民社のリーダー関矢孫左衛門の日記「北征日乗」をもとにその経緯がドラマチックに描かれているが、あらましはこうだ。
まず1899(明治32)年春、内地に10年以上遅れて北海道にもいよいよ地方自治の制度が創設され、二級町村制が公布された。遅れたのは、北海道は人口が少なくインフラも整わず、内地に比べて行政能力も未熟なためだ。
制度が実際に施行されるのは1902(明治35)年になるのだが、道庁ではそれまでに財政基盤が弱い町村を経済的に支えるための施策を整える。その一環として計画されたのが、野幌官林を江別と札幌、広島(現・北広島)に分割して与えることだった。
それはこの森を、まちの財源作りのためにいわばそれぞれが切り売りしても良い、という意味になった。
ここで立ち上がったのが北越殖民社のリーダー関矢孫左衛門たちだった。彼らは時の札幌支庁長(札幌支庁や函館支庁など道内に11支庁があった時代)や、園田安賢道庁長官に直談判して食い下がった。大切な子孫のために、安易な開墾で貴重な水源でもある森が失われてしまうことを許すわけにはいかない。
しかし願いは届かない。
一行は警察に警護されながら上京する園田長官を追いかけ、ようやく函館でつかまえると、不意を突かれて「怒気満面」の園田に再度思いをぶつけた。そしてこれがついに長官を動かし、野幌官林の分割供与は沙汰止みとなったのだった。
北海道での二級町村制が施行された1902(明治35)年の夏、「北海道国有森林原野特別処分令」が施行された。これは木材を大規模に利用する大手事業者(製紙やマッチ軸、皮革加工に使うタンニン製造など)に対して、官林を競争入札ではなく随意契約にすることで、買い手に特段に有利に販売できるようにしたもの。新開地に近代の自治体として立ち上がる町村の基本財源を、迅速に用意する目的があった。関矢たちの行動がなければ、こうした流れの中で野幌の森は虫食い状態になっていったことだろう。
右が北になる全体図。南北に走る中央線が分水嶺になって、両側に沢を刻む森の姿がわかる。東側水系は登満別川や志文別川となって江別川(現・千歳川)に注ぐ(「野幌林業試験場案内」1918年より)
野幌の森が生む水は、いまも一帯をうるおしている。東流して千歳川に注ぐ現在の志文別川。東野幌から残雪の芦別岳が望める
北越殖民社ではすでに明治20年代半ばに米の試作が始まり、灌漑のために沢の地形を利用して小規模な堤も作られていった。なんといっても米づくりは母村である越後の象徴的な生業(なりわい)だ。その後森の縁辺に大小の灌漑池がいくつも作られ、豊凶を繰り返しながらも米づくりは重要な産業となっていく。江別側の大沢の池や荻野の池、原の池、札幌側の瑞穂の池など、大きなものはいまも残っている。池はカモ類などのかっこうの生息地となって現代のバードウォッチャーを楽しませているが、北越殖民社の事業を綴った「野幌部落史」(関矢マリ子)には、水禽類は苗代の脅威だ、と記されている。
内務省の所管で1908(明治41)年に江別村大字野幌志文別(現・登満別)に開かれた野幌林業試験場の庁舎は、1927(昭和 2)年に江別町西野幌に新築移転された。当時の瀟洒な建物をリノベーションしたのが現在のサッポロ珈琲館Rinbokuだ。
組織は1933(昭和8)年に北海道林業試験場と改称されたのち、さらに幾度かの変遷を経て現在は札幌市豊平区羊ヶ丘にある国立研究開発法人森林研究・整備機構森林総合研究所北海道支所となっている。
野幌林業試験場が1908(明治41)年に開設された地は、現在の登満別ログハウスの南にある一角だ。開放された遊歩道は通じていないが、風雪にさらされた野幌樹木園という木の古い看板が立っている。歩いてみると明治40年代に試験的に植えられて研究されたアカエゾマツやサワグルミ、スギ、ヒノキアスナロなどのいまの姿を見ることができる。
現在の野幌樹木園のスギ。小樽で育てた苗を1911(明治44)年に植えたものが堂々とした巨樹となっている
その後時代が移り、日本は15年にも及ぶ戦争の時代を迎える(1931-1945)。西野幌に移転したあとの野幌林業試験場の跡地には、日本の戦火が大陸に留まらず太平洋にも広がった1941(昭和16)年12月、庁立野幌修練道場が建てられた。
「えべつ昭和史」(江別市)にはその目的が、「決戦下に待機する青年の精神修練」とある。翌年2月の道場開きには、全道から青年団幹部60名が、日常から隔離された森の中で1週間の錬成に取り組んだ。その後道内から招いた青年男女たちによって、農耕や生活訓練、警棒訓練、救急処置訓練などが行われた。男たちがつぎつぎと戦場と送られていく中で、社会の労働力となる女子挺身隊の鍛錬も強化されていく。
「えべつの歴史」(江別市)創刊号には、夕張の国民学校高等科2年のときにここでグライダーの搭乗訓練を行った回想が載っている(「野幌修練道場での日々」米田貢)。予科練で練習機に乗るための訓練で、道場から2キロあまり東の原野の中に滑空訓練場があったという。そして官林でのトドマツの枝切りも重要な仕事だった。決して実用的ではないが、松葉から軍用機の燃料になる針葉油を作るためだ。
長かった戦火の時代がようやく終わると、それまでに2万人以上を錬成した修練道場は、庁立野幌教育研修所として新たに組織換えが行われた。
戦中から一転して、今度は民主主義にもとづく団体幹部や教職員の研修施設となったのだ。また宿泊施設などを活用して、全道を学区にした季節定時制農業高校が、研修所に併置される。現在の道立野幌高校の前身だ(ともに1951年9月に焼失)。
戦後1946(昭和21)年の旧・野幌修練道場(野幌教育研修所)。研修者の記念撮影だろうか(「えべつの歴史」4号より)
人々は野幌の森のことを古くから原始林と呼んできた。太古からの森の営みが、一部には手つかずに残っていると思われてきたからだ。
しかし考古学者河野広道(1905-1963)は、NHK札幌中央放送局(現・NHK札幌放送局)のラジオ放送で、それは違うと語っている(1953年4月)。これは「北海道事始め」というテーマのシリーズ番組でのちに同タイトルで書籍化されているのだが、河野は、松前藩請負いの材木商飛騨屋が宝暦年間(1751-1764)に、千歳川上流域(漁川など)でエゾマツやトドマツを伐りだし、江別川(現・千歳川)や札幌川(現・豊平川)の河口(本流石狩川との合流点)の留場所で筏を組んでいた史実にふれる。
木材は、そこから石狩川河口の木場まで運ばれていった。そして一連の事業では良質な針葉樹が茂る野幌の森も一度すっかり伐ってしまっているので、本当の意味の原始林ではないだろう、と述べている。わざわざ支笏の山々に深く入らなくても石狩川に近い平地にエゾマツやトドマツの森があるのだから、飛騨屋には宝の土地に見えたことだろう。
石狩低地帯にあることで夏でも太平洋から日本海に抜ける冷気にさらされるこの土地では、標高から見て異例なほどの針葉樹林が発達していた。現在の森の南からの入口はトド山口だが、これは一帯がトドマツの山だったことを意味している。
河野は、戦後まもなくこの森の奥に道をつけるときに江戸期の茶碗や皿がたくさん出てきたが、これは飛騨屋の作業小屋のあとだと思われた、と振り返っている。
松前藩の有力な請負商人で、18世紀初頭から江差のある檜山で大規模な伐採(ヒノキアスナロ)を行った飛騨屋が道央に進出したのは、3代目の時代。毎年100人を超える杣夫と、事務方や物資の輸送人員、そして斧や鋸(のこぎり)、鳶口(とびぐち)などたくさんの道具のメンテナンスを行う鍛冶たちが山に入った。さらには、危険な流送を担う男たちも集結する。伐採や流送を担うのは主に、蝦夷地に渡る前の本拠地だった下北の大畑でヒバを伐っていた、すこぶる腕のある男たちだ。
石狩川河口に集められた膨大な木材は、そこから江戸や大坂(阪)などに移出されたから、飛騨屋はさすがになんとも大スケールで複雑な事業をまわしていたことになる。飛騨屋は4代目の時代に奥蝦夷地(厚岸・霧多布・国後)でアイヌとのあいだで凄惨な戦いを繰り広げるのだが(クナシリ・メナシの戦い)、ここではふれない(飛騨屋については過去に記事がある)。
河野によれば、野幌の森でも飛騨屋の大規模な事業が展開されていた。しかし森の200年あまりの月日は、人間の痕跡を消し去るには十分な時間だった。
現在の登満別園地。駐車場があり、遊歩道のスタート地点にもなっている
力強い樹影が美しい、1909(明治42)年に登満別に植えられた北米由来のストローブマツの試験林
さまざまな人がそれぞれの思いで過去と関わり、新たな物語を編集し合うことで、土地の複雑な歴史は深みと広がりを獲得していく。
作家保田與重郎(1910-1981)は「日本の橋」の中で、「日本の文化は回想の心理のもの淡い思ひ出の陰影の中に、その無限の広がりを積み重ねて作られた」、と書いている。生物相を切り口に語られることの多い現在の野幌森林公園だが、この森を歩く人々の胸には、芽吹くのはいつかわからないが、今日もかけがえのない回想の種がそっと蒔かれているはずだ。
最初の林業試験場庁舎があった登満別園地から森歩きをはじめよう