サイドストーリー「野幌森林公園を歩く」-3

森の時間と人の時間

大沢口から森歩きをはじめると、カツラの大木がつぎつぎに現れる。数百年の時間を生きてきたものだけが持つ威厳と迫力

1936(昭和11)年10月初旬。野幌の森は猛烈な暴風雨で深く傷つく事態となった。そしてその直後に迎えたのが、陸軍の特別大演習で来道した天皇一行の巡覧だった。里の人々にとっては激動の日々。しかし、それを森に流れる時間の上に置けば、またちがったものに見えるのかもしれない。
谷口雅春-text&photo

カツラの巨木が生きる森

これまで野幌森林公園をめぐって、森の東部の志文別や登満別を歩いてきた。最後の3回目は、北西の大沢口から森に入ろう。ここには北海道が設置した「自然ふれあい交流館」というビジターセンターもあるので、季節と天候に恵まれた日には駐車場に収まらないほどの車も出入りしている。
大沢口からの広い遊歩道は、イタヤカエデやカツラ、ハルニレ、ミズナラ、アサダなど、広葉樹の古木や大木が林立するあいだを進む。前回までの登満別が試験林の造成によって人の手が大きく入っていたのに対して、大沢では、開拓以前の森がいまでもリアルに想像できるだろう。なかでもわかりやすく目につくのは、カツラの大木や、この木の朽ちた巨大な根株だ。

新緑が森歩きを誘う、野幌森林公園大沢口

カツラはアイヌ語でランコ。後志(しりべし)に蘭越(らんこし)町、千歳にも蘭越の地名があるが、いずれも「カツラが多い場所」を意味する土地の名だ。
明治以降に和人が拓いたまちでも、三笠の桂沢や網走の桂町、富良野の桂木町など「カツラ」がつく地名の多くは、その一帯にカツラが多かったことに由来する(「角川日本地名大辞典」)。内地でも同様のことが言えるだろう。カツラは時代を超えて、いつも人間の暮らしのまわりにあった木だ。
沢すじなどの湿った土地を好むこの木は、条件が良ければ数百年の寿命をもち、長寿の幹の根元からひこばえを生やして、株立ちを見せる。だからより大きなかたまりとなって、森の中で異質な存在感を放つようになる。
カツラの材は軽くて柔らかく、強度も十分にあって美しいので、アイヌ民族は食器やまな板などの生活道具に使い、大木はそのまま丸木舟の材料になった。また、森の奥に鎮座する大きな樹形や、秋の黄葉が放つ甘い香りは、太古から人々の想像力や感性を刺激したはずだ。萌芽の力が強く、株立ちによって複数の世代がかたまって生きていくさまからは、各地のコタンで伝説のモチーフにもなっていたことも腑に落ちる。さらに中国の説話では、カツラは月にも生えている木だというではないか。

開拓民にとってもカツラの木はさまざまに有用だった。北越殖民社のあゆみを編んだ「野幌部落史」(関矢マリ子)では、入植当初の主食であったトウキビをひいた粉を捏(こ)ねる捏ね鉢はカツラなどで自分で作った、と書かれている。生活具を自ら作るのが開拓民だ。
また一般の建築材としては、強度の面でトドマツやエゾマツには劣るものの、木肌が美しく刃物に良くなじむので、内装に多用された。ときには美しさを兼ねた構造材として活かされることもあり、例えば国指定の重要文化財である増毛町の丸一本間家(現・国稀酒造)の住宅の大黒柱は、カツラだ(「北海道の民家」北苑社)。

遊歩道の近く、新緑の森を生きるカツラ

いのちを終えたカツラは、さまざまないのちに吸収されながらゆっくりと大地に還っていく

「昭和11年陸軍北海道特別大演習」と野幌の森

大沢口からその名も「桂コース」を歩けば、ゆるやかな傾斜を下りながら1.7キロほどで大沢園地だ。森の南部から中央にかけての標高が80メートル以上あるのに対して、北側の園地一帯は20メートル台で、集水域。地下水位も高く、春には水の気配に満ちている。
谷にある園地から北へ坂道を上れば森を出て、かつて北海道林業試験場があり、今も育種場がある文京台。逆の南へ進むと、森の奥へのアプローチになる遊歩道、「大沢コース」がある。

第1回でふれた植物学者舘脇操のエッセイ(「野幌の森」.北方林業1968.Vol.20)には、1936(昭和11)年に北海道で行われた陸軍特別大演習にちなんで、昭和天皇一行が野幌の森を訪れた記述がある。
「陛下、秩父宮、三笠宮のお三方は馬首を並べて、林内のご散策をされた。お三方ともご機嫌は上の上と拝聞。このあたりにまた北海道林業試験場の一つのピークがあった」
1936(昭和11)年10月7日の、このできごとをめぐる挿話を拾ってみよう。

北海道において最初で最後となった陸軍大演習は、昭和11年(1936年)10月に行われた。当時最大規模の軍事演習で、政治的にも軍事的にも重要な意味を持っていた。満州事変(1931年9月)後、日本は大陸で傀儡(かいらい)国家として満州国を建国する一方で、国際連盟を脱退(1933年)。大演習が行われる半年あまり前(1936年2月)には、陸軍の青年将校たちが、未遂に終わったもののクーデターを起こした(二・二六事件)。中国国内では国民党と共産党の内戦が続いている。翌年の夏には盧溝橋事件があり、ついには日中戦争が全面化していくのだった。
緊張感がつのるそんな時節に行われた演習は10月3日から3日間で、舞台は石狩平野東部。ともに日露戦争における満洲での野戦経験を持つ、弘前の第八師団を軸にする南軍が、旭川の第七師団を中心とする北軍を攻撃する設定で、天皇は大元帥としてこれを統監した。戦闘の中心地となったのは角田村(現・栗山町)の平原で、大本営が設けられたのは札幌の北海道帝国大学農学部だった。
しかし折悪しく列島を縦断してくる台風の影響で演習は3日、4日と暴風雨にさらされ、河川の増水や風倒木被害が多発する。そうした状況は陸軍に、通信や兵站をめぐるリアルな教訓を授けることになった。天候が回復したのは最終日、5日の朝だ。

翌10月6日は札幌飛行場(現・北区北24条西8丁目に正門の門柱が残る)で観兵式が行われた。演習に参加した兵士ら2万5千人と3000頭もの軍馬が集結する。ときの総理大臣広田弘毅をはじめ、陸軍大臣や内務大臣、鉄道大臣、さらに関係省庁の幹部陣が札幌入りしたから、期間中はさながら政治の中心は札幌に移った感があった。「札幌市史」は北海タイムス紙の記事を引きながら、「一大軍国絵巻」が繰り広げられて「開道以来の盛観」を呈し、これを見に10万人を越える人々が集まった、と書く。「札幌は創始以来の盛観だった」。当時の札幌の人口は20万人強だから、いかに途方もない大イベントだったかが想像できるだろう。

北海道林業試験場に到着した天皇一行(「昭和十一年陸軍特別大演習並地方行幸記念写真帖」より)。庁舎の外観は、リノベーションされた現在まで活かされている

天皇一行が野幌の森に入ったのは観兵式の翌7日のことだった。この日は大演習中の台風禍から打って変わった小春日和。
「昭和十一年陸軍特別大演習並地方行幸北海道庁記録」によれば一行はまず、北海道の総鎮守である札幌神社(現・北海道神宮)を親拝。それから札幌控訴院(現・札幌市資料館)を訪れ、札幌入りしていた法務大臣や検事総長、そして同控訴院院長らが天皇に拝謁した。それから道庁で同じく内務大臣や道庁長官や札幌市長らが拝謁。次に野幌に向かう。
昼前には鉄道で野幌駅に着き、そこから天皇の車列は北海道林業試験場をめざした。庁舎は、現在サッポロ珈琲館 Rinbokuが入る建物だ。天皇は、先着していた秩父宮(昭和天皇実弟)、三笠宮(同)をまじえて林業試験場場長石原供三(ともぞう)らに迎えられ、場長から試験場の業務内容の奏上を受けた。さらに2600点以上を数えた標本類の説明を聞く。当時から金属に代わる航空機の材料としてエゾマツやトドマツ、イタヤカエデなどが研究されていたから、一行は興味深く聞いたことだろう(アジア太平洋戦争末期に江別では、木製戦闘機キ106が試作されることになる)。

スプリングエフェメラルの季節が過ぎて6月の声を聞くと、トド山口にフタリシズカが咲いていた(2024年)

庁舎を出ると天皇は、共に来道していた白い愛馬白雪(しらゆき)号にまたがる。そこから場長の先導により、昭和天皇と秩父宮・三笠宮の三兄弟と従者たちは、現在の大沢コースと中央線を進んで南のトド山口まで、森のなか8キロほどを馬で巡覧したのだった。北越殖民社の人々も沿道で奉迎して、「空前絶後の光栄に浴した」(「野幌部落史」)。
前掲の「北海道庁記録」によれば、「龍顔(天子の顔)殊(こと)の外(ほか)麗しく常に御微笑を湛へられ、両殿下と御睦じく御楽しげに御物語りあらせられ、又、秩父宮殿下自ら御一行を御撮影遊ばされ給ふなど、茲(ここ)に図らずも陛下御兄弟宮のいとも和やかなる御団欒の御様子を拝し臣下一同感激の余り感涙を催せり」、とある。
先にあげた舘脇操のエッセイで「お三方ともご機嫌は上の上と拝聞」とあるのは、このようすにほかならない。
森には巡覧を記す碑がある。大沢園地から南にゆるやかな遊歩道を上り、ほどなくして林内に見える「駐蹕(ちゅうひつ)の碑」だ。休憩場所として、そこに丸太とよしずで設(しつら)えたあずま家が建てられたという。

1936(昭和11)年10月7日。昭和天皇が秩父宮、三笠宮と共に馬でこの森を巡覧したことを記す「駐蹕の碑」

「駐蹕の碑」のそばに立てられた解説版

天皇を迎えた舞台裏

北海道林業試験場研究員を長く務めた井上元則は、「野幌原生林100年のうら話」(北方林業1968.Vol.20)と題した随筆で、行幸の興味深いエピソードを綴っている。
まず10月7日の本番に先駆けて、森にクマが出没して大騒ぎになった。当日万が一のことがあれば、と関係者は困り果て、千歳からアイヌの熊狩り名人小山田(※小山田菊次郎と思われる)を呼んだ。逆に言えば、1936(昭和11)年当時でも野幌の森でクマを見るのはかなり珍しいことだったことがわかる。
小山田は10日間ほど追ったが追い切れず、クマは林外に逃げ去ったという。そして騒動が一段落すると、10月3日、今度は大演習にも襲いかかった台風によって、大量の風倒木被害が出た。予定していた天皇一行の巡覧路も通行不能になってしまう。4日、5日、6日の3日間でなんとしても撤去しなければならない。
最初の二日でなんとか幹や枝の撤去を終えると、作業員たちはなにしろ陛下を迎えるのだから、遊歩道に落ち葉ひとつ落ちていても不敬になると思い込み、指示もないままに土の路面を徹底的に掃き清めた。
しかしこれを見た石原供三場長は激怒する。陛下には自然のままを見ていただくのだ、誰が落ち葉までも片付けろと言ったんだ!と声を荒げ、ステッキで各班長を殴りつけるひと幕があった。
「伝令は乱れ飛び大沢より先方にいた連中は、あわてて捨てた落ち葉を拾い集めて路面に散らかしたり、大騒ぎであった」
井上は、当時は封建的な社会だったから班長たちはそこまで叱られても泣き寝入りをしていたが、いまなら人権蹂躙だろう、と書く。

このときの風倒木について、林業試験場で長く研究を重ねた松井善喜は、瞬間風速40メートルを超える暴風が吹き、「林内は樹の倒れる音、枝が唸って飛び交う音に、この世の地獄のようであった。たまたま林内奥の陛下のお休所を見廻っていた私達はやっと林内を抜け、家に辿りついた」、と回想している(「野幌原生林100年のあゆみ」北方林業1968)。

野幌の森の北縁、標高の低い大沢園地一帯は地下水位が高く、湿潤地を好む植物たちが楽しめる。4月下旬のミズバショウの群落

北海道林業の最先端を拓く

行幸があった時代を回想して舘脇操は先にあげたエッセイで、「このあたりにまた北海道林業試験場の一つのピークがあった」、と記している。その意味をひもといてみよう。

1908(明治41)年に志文別(現・登満別)に創設された野幌林業試験場は、1927(昭和2)年に西野幌に移り(当時の庁舎をリノベーションしたのが現在のサッポロ珈琲館Rinboku)、その6年後(1933年)には内務省所管の北海道林業試験場と改称されている。改称後の初代場長は、先にあげたように、のちに天皇に試験場の事業内容を奏上することになる石原供三(ともぞう)で、道庁の造林課課長を兼務していた。
先の文章(「野幌原生林100年のあゆみ」)で松井善喜は、石原は当時ヨーロッパで盛んだった森林土壌の研究を野幌のトドマツで展開して、その後の北海道の天然林施業の基盤を整えた研究者だった、と解説している。つまり石原は、天然林に適切に手を加えて森林を持続的に活用するための管理を、気象や地形にとどまらず、それらと深く関わる土壌の研究を通して進めた。舘脇は天皇を迎えたという史実だけではなく、前例のないそうした研究が、試験場のあゆみの中でエポックとなったと捉えたのだろう。

針葉樹と広葉樹が美しく混じり合う針広混交林の表情が、野幌の森の個性

「北海道行幸啓誌」(札幌市1955年)には、1936(昭和11)年10月に石原が上奏した内容が言葉づかいをなぞるように載っている。
石原はまず、北海道は木材資源の国内供給地として極めて重要な地位にあることを説き、とりわけ近年は、寒帯針葉樹を主原料とする人造絹糸(レーヨン)と人造羊毛の原料供給地の使命を任じている、と伝える。化学繊維の開発と普及は日本では戦後のことだから、この時代はさまざまな製品の原料になりうる針葉樹の価値は、建築などの領域にとどまらず高かった。
そして石原は、天然林を相手にする北海道の林業は、自然の力を巧みに利用して新しい林木の増殖を計る方法、いわゆる天然更新に関する試験が重要で、現在では針葉樹の天然更新と森の地形や土壌性状に密接な関係があることが科学的に立証されている、と自身の研究を報告した。北海道の林業は原始産業の域を脱して加工産業に進みつつあり、これからはさらに天然材木の特性を極めながら「適地に適材を育て適材を適所に供給し、而(しか)も是を永久に保続することの徹底を期しておる次第で御座います」。
海洋生物学や分類学をはじめとした生物学に知見を持っていた昭和天皇は、北方の大陸を見すえながら内地とはちがう風土で展開されているこうした研究を、興味深く聞いたのではないだろうか。

5月下旬。大沢園地の一角で、バードウォッチャーたちがエゾフクロウの幼鳥の巣立ちを息を呑むように見守っていた

「札幌市史」では陸軍北海道特別大演習があった1936(昭和11)年を、「演習に明け暮れた一年だったといえる」、と書いている。「札幌百年の年譜」(札幌市)ではこの年を、「行幸などで景気が復回(ママ)し特に道路が著しくよくなる」、とある。この大イベントは、長い準備期間や終わったあとの段取りも含めて、不況や凶作に直面していた当時の市民生活にも幅広く大きな好影響を及ぼしたのだった。
一方でこのシリーズで取り上げてきた北越殖民社はこの年の5月、入植のリーダーだった関矢孫左衛門(1844-1917)の野幌における長男で、同社の次代を担うはずだった関矢留作を病で失っている。孫左衛門の右腕だった山口多聞次(留作の異母兄)が野幌で亡くなり、その遺骨を一族の郷である新潟県広瀬村に届けたあとの客死で、31才を迎えたばかりだった。留作の思いと構想を引き継いで妻のマリ子が編纂したのが、いまなお幅広い分野から高く評価されている「野幌部落史」だ。

シリーズ3回にわたって、野幌の森の梢(こずえ)ごしに、明治期から昭和への江別の営みをスケッチしてみた。この広大な森は人間社会と複雑に入り交じりながらも、いまなお大地に深く根をはりめぐらせ、膨大な数の生きものと共に、空に枝葉を大きく広げている。数百年の時間を生きるカツラを前にすると、人やまちは、自ずと自らの来し方行く末を考えてみたくなるだろう。野幌の森には、そんなことを再認識させてくれる深い時間が流れている。
次の休日、野幌森林公園に足を踏み入れてみてはいかがだろう。

【了】

                

大沢コースからエゾユズリハコースに入ってまもなく、数百年の樹齢を数えるカツラがある

大沢口にあるビジターセンター「野幌自然ふれあい交流館」の野外展示(2025年5月)


野幌自然ふれあい交流館(大沢口にあるビジターセンター)
北海道江別市西野幌685-1
TEL:011-386-5832
開館時間:9:00〜17:300(5月〜9月)
休館日:毎週月曜日(祝日、振替休日の場合は開館)
入館料:無料

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