
北越殖民社のリーダー関矢孫左衛門の屋敷跡である千古園(江別市東野幌)のブナの大木。1898(明治31)年、郷里の湯之谷村(現・魚沼市)からブナの種子を関矢が持ち帰って植えたもの
北越殖民社のリーダー関矢孫左衛門の屋敷跡である千古園(江別市東野幌)のブナの大木。1898(明治31)年、郷里の湯之谷村(現・魚沼市)からブナの種子を関矢が持ち帰って植えたもの
1900年代初頭。
時代の大きなうねりとして、まずなんといってもロシアとの戦争に至る北東アジアの緊張があった。日露戦争(1904-05年)が勃発すると江別屯田と野幌屯田というふたつの屯田兵村をもつ江別からも、屯田兵を中心に多くの兵士が送り出されることになる。
屯田兵には日清戦争(1894-95)でも動員がかかったが、東京まで派兵された時点で終戦となり、兵たちは帰還していた。しかし日露戦争では旭川の第七師団に所属して、旅順や奉天などの激戦地で戦い、20名以上の戦死者を数える。「野幌部落史」(関矢マリ子)によれば、北越殖民社からは12名が出征して、1名の軽傷者が出た。
第七師団は、開戦してから半年あまりは北海道に留まった。サハリンや沿海州からロシアが北海道に侵攻してくるリスクに備えたからだ。「新北海道史」にはこのとき、逆に打って出て、第七師団をサハリンに上陸させる作戦が参謀本部で練られていた、とある。
日露の戦いは奉天会戦(1905年3月)や日本海海戦(同年5月)の日本の勝利によって、講和となる。しかし日本もこの時点で国力の限界に近く、ロシアはその後の革命にいたる混乱で兵站も機能しない状態。国際政治の舞台で力を示したいアメリカが仲介した終幕だった。米国ニューハンプシャー州のポーツマスで講和の条件を定めたポーツマス条約(1905年9月)が結ばれたが、日本ではその内容に不満な人々の近視眼的な鬱屈をくすぶらせることになる。それが表面化したのが、日比谷焼打事件と呼ばれた暴動だ。
一方でこの時代の野幌では、軍馬の飼料用に陸軍が買い上げるエンバクの作付けが急増した。風土の条件で牧草地しか開けない札幌北部の農場開拓を支えたのも、陸軍がもたらしたこの景気だった。
1906(明治39)年には江別村・対雁村・篠津村の3村が合併して、新たな江別村が誕生した。そしてこのころ富士製紙(のちに王子製紙と合併。現・王子エフテックス)が、江別に大工場を建てることが発表される。工場や周辺設備の建設が急ピッチで進められ、2年後(1908年12月)の操業を迎えるのだが、進出の決め手は江別の立地にあった。
パルプの原料である豊富なトドマツやエゾマツは空知川上流域で冬に伐採して、融雪期の増水を利用して空知川を流送する。筏(いかだ)を組んだ原木は本流の石狩川に入って、江別まで運ばれた。江別には原料の調達と輸送に最適な条件があったのだ(大正10年代以降は輸送は鉄路が担うことになる)。
それまでに職員や工員(総勢500名近く)用の住宅が建てられ、加えて市街では借家の建設ブームも起こった。いまなら千歳でラピダスが起こしているムーブメントに例えられるだろうか。「江別市史」は、新聞や包装用の紙を作るこの富士製紙について、「かつてない目をむくような大工場の出現となった」、と書いている。
もとより石狩川を交通インフラにして北海道の内陸開拓の最前線だった江別には、開墾やまちづくりに関わる膨大な物資や人、そして情報や資本が集積していた。江別川(現・千歳川)左岸にあった共同物揚場は、1900年代初頭には、江別川が石狩川本流に注ぐ右岸一帯にまで広がっている。
千歳川(旧・江別川)が石狩川に注ぐ現代の河口域。対岸に製紙工場をのぞむ
石川啄木が函館から北海道を東へ漂泊したのもこのころだ。
渋民村(現・盛岡市)から函館に移り住んだ石川啄木は、1907(明治40)年夏の函館の大火に焼き出されるように、その年の秋から翌年にかけて、札幌、小樽、釧路と移動を続けた。道中の官設鉄道(のちの国鉄函館本線)の旅を主題にした、こんな歌がある。
「みぞれ降る/石狩の野の汽車に読みし/ツルゲエネフの物語かな」
短編小説「雪中行」では、小樽から札幌、江別を鉄路で通過する自分語りが展開されている。
銭函を過ぎれば石狩平野。まったく未知の土地である白石駅、厚別駅と過ぎて次は野幌。寝不足でくたびれた身では、名物の煉化もち(啄木の表記は「煉瓦餅」)を買う気にもなれず、江別も幌向も過ぎた、とある。
野幌には1898(明治31)年に北海道炭鉱鉄道の煉瓦工場と、小樽商人の舘脇米蔵が経営する舘脇煉瓦工場が創業した。煉瓦を焼く熱源はもちろん、一帯の森に求められた。地域の顔となった煉瓦の生産から生まれたのが、銘菓「煉化もち」だ。
北炭から煉瓦の製造業務を委託されたのは、作家久保栄の祖父久保栄太郎(徳島出身)で、家業は久保の未完の長編「のぼり窯」のモチーフにもなっている。
はるか東の釧路に向かう啄木は寝不足で疲れ果て、1901(明治34)年から野幌駅で人気を呼んでいたこの「煉化もち」を買う気力も無くした、異郷を旅する内地の人間だった。ちなみに中央高地を貫いて道央と道東を直結する、鉄道史のエポックとなる狩勝トンネルが開通したのは、その3カ月ほど前のことだった。「雪中行」の一節を引いてみる。
右も左も、見ゆる限りは雪又雪。所々に枯木や茅舎(ぼうしゃ)を点綴(てんてい)した冬の大原野は、漫(そぞ)ろにまだ見ぬ露西亜の曠野を偲ばしめる。鉄の如き人生の苦痛と、熱火の如き革命の思想とを育て上げた、荒涼とも壮大とも云ひ様なき北欧の大自然は、幻の如く自分の目に浮んだ。不図したら、猟銃を肩にしたツルゲネーフが、人の好ささうな、髯の長い、巨人の如く背の高い露西亜の百姓と共に、此処いらを彷徨(うろつ)いて居はせぬかといふ様な心地がする。
江別から岩見沢にかけての荒涼とした幌向原野の風景が、孤独に打ち沈んだ自らの内面と響き合い、日露戦の勝利がもたらしたロシア文学の翻訳ブームもあって、露国の文豪をいかにもロマンチックに重ねたくなったのだろう。
しかしもちろんこうした心象風景は、この土地で暮らす開拓民の日常と交わることはない。
啄木の「雪中行」に「名物の煉瓦餅」として出てくるロングセラー。野幌の銘菓「煉化もち」
野幌に林業試験場が開設(1908年)された時代は、北海道の林業にとってどんな時代だったのだろう。
明治初頭に本格的な開拓が始まってからそのころまで、地上から空が見えないほどに密だった北海道の山林は、人間が自由に使える無尽蔵のリソースだった。あればあるだけ伐る、という収奪的な林業がまかり通っていたのだが、なにしろ森は資源である前にまず、まちを拓くために戦わなければならない、恐ろしい相手だったのだ。
内地の林業にしても、スギやヒノキを植えて、成長を待ってそれを伐り売りするばかり。今日でいう、水源の環境保全や生態学の知見をベースにした持続的・計画的な林業にはほど遠かった。しかしそうした方向へのシフトが、この時代に始まる。野幌林業試験場は、日本の森林政策を大きく転換させる動力のひとつとして誕生したのだった。
1909(明治42)年に試植された、登満別のストローブマツ林。春近い3月の表情
現代の北海道林業の夜明けは、まず科学的な森林調査から始まった。中心にいたのは、ちょうどこの1908(明治41)年に道庁の技師となった林常夫。東京帝国大学農科大学(東大農学部の前身)で林学を学び、道庁に入ったばかりの俊英だった。
林らはそれから10年間にわたって、大雪山を中心にして北見、阿寒、十勝、石狩、胆振などの山をドサンコ(道産馬)を足にして踏査。地形の測量や樹種別分類、稚樹のカウントなどを地道に進めた。林は後年、北海道開発功労賞(北海道開発庁)を受賞する(1971年)が、その仕事が紹介された「北海道開発功労賞の輝く人々」(1971)によれば、林自身が、この時代の自分は「バカバカしいほど山を歩いた」、と述懐している。この経験が林に北海道の森の無二の価値を理解させて、のちに昭和の初頭、阿寒と大雪山が日本で最初の国立公園に含まれるいきさつにも大きく貢献することになる。
大正初期に北米やヨーロッパから輸入されたさまざまな樹種が植えられた、登満別にある「外国樹種試植林」
「野幌原生林100年のあゆみ」(「北方林業」1968松井善喜)によれば、立ち上がった野幌林業試験場では、まず苗畑の造成と人工造林のために約20ヘクタールが皆伐され、そこに外来樹種などが試験的に植えられていった。人夫40、50人が入って小屋掛けをしたから、登満別(とまんべつ)には酒や菓子や雑貨を売る商店までできたという。前回ふれた、宝暦年間(1751-1764)に松前藩の請負商人飛騨屋が、現在の野幌で大規模な山仕事を動かした史実とも響き合う挿話だ。
伐採は、搬出に適した冬期に行われた。松井は、「部落民の山子姿も勇ましく、馬橇の鈴の音もにぎやかに素材丸太が運び出され」た、と書いている。そして、1934(昭和9)年までの22年間で、北海道林業の可能性を探究するために、外国産、本州産、道内産のさまざまな樹種が試植された。ヨーロッパトウヒ、ヨーロッパアカマツ、ストローブマツ、スギ、グイマツ、カラマツ、ヤチダモ、エゾマツ、トドマツなどだ。こうして開かれた人工林は、いまも登満別の風景を形づくっている。
登満別の野幌林業試験場にある樹木園のブナ。1911(明治44)年に函館から移された苗木が大木に育っている
野幌林業試験場の苗畑で育てた苗を1910(明治43)年に植栽したヒノキアスナロ。かつて道南の檜山地方のこの木は、松前藩の財政を支えた重要な資源だった
前回につづいて、新潟県から江別へ渡った結社移民、北越殖民社のことを綴ろう。
19世紀最後の年(1900・明治33年)、入植以来10年あまり野幌の開墾に取り組んでいた北越殖民社は道庁の成功検査で認められ、北海道国有未開地処分法にのっとり、1300ヘクタールあまりの開墾地を無償で手にすることになった。この法律は、審査が通った事業者に対して最初に広大な土地を無償で貸し付け、期限内に開墾に成功すればその地がただで与えられるという、現代から考えると夢のようなもの。内陸開拓をなんとか進めたい道庁が動かした施策だった。
これで野幌の土地はいよいよ正式に北越殖民社のものとなり、小作者たちに分け与えられることになる。
一方でそこに至るまでに幾多の苦難があったことは言うまでもない。直前では石狩川の近代治水事業を立ち上げるきっかけとなった大洪水があった(1898年)。その後は前回ふれた、野幌官林の分割付与の危機もつづく。
1903(明治36)年には、同社の有力メンバーが亡くなり、彼が溜池の用地として道庁へ貸し下げを申請していた30ヘクタールあまりの土地の行く末が宙に浮いた。さらにその土地の権利が札幌の部外者に渡っていることがわかり、リーダーの関矢孫左衛門らはこの権利者から土地を買い戻す交渉をなんとかまとめた。しかし立木を煉瓦工場に売って作った予算では足りなかったため、地域の各戸にも負担を求めて、そこを共有地とする。
共有地を持つことはかねてからの関矢の念願であり、彼はその管理と運営を担う団体を立ち上げた。それが野幌報徳会だ。
報徳とは、江戸時代後期の相模の国の農政家二宮尊徳が指導した、経済と道徳の融和を志向する思想と技術の体系だ。「至誠(こよなく誠実であること)」、「分度(分相応に慎ましく生きること)」、「勤労(心身を尽くして仕事に励むこと)」、「推譲(富や価値を後世に譲り渡すこと)」、という4つの理念が基盤になっている。
尊徳の孫である二宮尊親が入植のリーダーとなった十勝の豊頃をはじめ、報徳の思想と方法を実践した入植とまちづくりは、北海道の開拓史でいくつかの事例がある。「野幌部落史」(関矢マリ子)によれば、越後に暮らした時代から孫左衛門は二宮尊徳に私淑(ししゅく)していて、生活の指針に報徳の理念があった。
一方でマリ子は、1970年代に書いたエッセイ「進むということは」(「のっぽろ日記・冬のたわごと」所収)で、報徳は共有地を維持するために上からかぶせた名前だったとも書いている。いわば方法としての報徳思想だが、それは、あくまで実践的な仕法であった報徳の運動にふさわしいものだったとも言えるだろう。
同書で彼女は、「今ばやりの住民運動のはしりみたいで、その頃の記録は自治精神に満ちあふれている」、と述べている。西野幌から登満別園地に進む道の脇に、かつて野幌報徳会の小さな社(やしろ)があった。
野幌小学校のグラウンドの先を西に歩くと、原の池の堤に出る入口がある。丸太を組んだ橋は、「ドキドキ橋」
水田造成のために森が生み出す水を活かす灌漑地が周縁にいくつも作られた。そのひとつ原の池
キリスト教思想家内村鑑三の「Representative Men of Japan(代表的な日本人)」がアメリカのプロテスタント系の出版社から英語で発刊されたのは、ちょうどこの時代、1908(明治41)年だった。内村は、日露戦争での勝利のあと、西洋に日本国の精神的な成り立ちや道徳の伝統を理解してもらうために、西洋人でも理解しやすいであろう5人の日本人の人物像をまとめた。そのひとりに、二宮尊徳がいる。
内村は二宮の仕事を、「『自然』は、その法にしたがう者には豊かに報いる、という単純な理に基づいていた」といい、尊徳から見て「最良の働き者は、もっとも多くの仕事をする者ではなく、もっとも高い動機で働く者だった」、と述べる(鈴木範久訳)。二宮の言葉は、現代の社会の痛点をも深く突いているだろう。
春の野幌の森は野草たちの開花の舞台。原の池のほとりのニリンソウ
1908(明治41)年前後、野幌林業試験場が開設された時代を断片的にスケッチしてきたが、底流する動きとして、「地方改良運動」にもふれたい。
明治の末、日露戦争に費やした財政を補うための増税や、特需の終了が招いた不況などで、人心や地方財政は重く疲弊した。「地方改良運動」は、近代国家確立のために、そうして荒廃した地方社会の再建を幅広くめざす官製の運動だった。バックボーンとなったのは、明治天皇の名で発布された「戊申(ぼしん)詔書」だ。
詔書(天皇の命令を伝える公文書)は国民に、天皇のもとでの道徳と忠誠の大切さを説いた。
歴史家大濱徹也はこの運動を、「日露戦争後、第二次桂内閣(1908年7月発足)の元で農村秩序の再編成をめざして、内務官僚が中心になって報徳主義を思想的軸に展開した運動」である、と概説している(新版郷土史事典)。
しかしその2年後には、幸徳秋水らの社会主義・無政府主義者を苛烈に弾圧した大逆事件(1910年5月から逮捕者が出始める)があり、石川啄木は、青年たちのあいだに広がる無力感や鬱積(うっせき)を「時代閉塞の現状」と題して論じている(1910・明治43年文芸誌「スバル」)。
ここから先は本稿の射程を超えているのでここで収めておきたいのだが、石川啄木や報徳仕法を触媒にしながら野幌林業試験場が立ち上がった時代を一瞥すると、野幌の森歩きもさらに味わい深くなるはずだ。
トド山口は、野幌の森への南の入口。5月上旬、新フキのあいだをぬって、ヒトリシズカが咲いていた