小説家の筆が描いたまち。書かれた時代と現在。土地の風土と作家の視座。
「名作」の舞台は、その地を歩く者の眼前に何かを立ちのぼらせるのだろうか。
*この連載は、作家の合田一道氏が主宰するノンフィクション作家養成教室「一道塾」(道新文化センター)が担当しています。
第62回

六つの村を越えて髭をなびかせる者(西條奈加)

あらすじ

天明5(1785)年、蝦夷地開拓を視野に幕府の見分隊が派遣され、先住民族アイヌの窮状を知った隊員の最上徳内は、力を合わせて蝦夷を拓きたいと願う。だが政権交代で開拓の政策は打ち切られる。新政権に代わり、開拓の役人に指名された徳内は固辞するが、未踏の大地とアイヌの人々への思いが沸き上がる。

時代のはざまを貫く思い

望月洋那/一道塾塾生

出羽から江戸に出た徳内は、多方面に精通する本多利明の音羽塾に入門する。北方を拓けと説く本多の後押しで、徳内は蝦夷開拓の役人青島俊蔵の従者として見分隊の一員となる。
役人10名、従者、船頭ら含め50を超える人数が松前に渡る。見分隊は松前留守居組、西組、東組に分かれ、船で南岸を辿る東組の徳内は、途中上陸しては測量しつつ進んだ。道中、運上屋で辛そうに働くアイヌ人を見る。大きな網で魚を捕る、山林から切り出す材木を運ぶなど、力仕事はほぼアイヌの男たちが従事していた。東組が起点とするアッケシに着いた夜、松前の役人が訪れるたび行われる式オムシャがあり、尊大な態度の藩役人に対し、集められたアイヌ人は縮こまっていた。東組のキイタップ行きを前に徳内に声がかかる。

アッケシに残り、運上屋の実態を確かめよと、青島は徳内に命じた。
「それと何よりも、アイヌ語を解さねば話にならん。物覚えの良さなら、おまえは抜きん出ておる。頼んだぞ、徳内」(中略)
目が合ったとたん、相手がにっと歯を見せた。
「おまえは…」

オムシャの日に見かけた少年は、フリゥーエンと言った。翌日から、アイヌとの会話は厳禁という松前藩役人の目をかいくぐり、アッケシ湖北側の集落で 「トク」と「フルウ」は言葉を教え合う。キイタップ以東からアッケシへと戻り東組が松前に発つ前日、アッケシアイヌの総乙名イコトイが見分隊の仮屋を訪ね、藩の役人や請負商人の横暴を訴えて、アイヌ人が禁じられている和語の習得と農耕を行うことを切望した。隊長の佐藤は、江戸に帰り必ず上に伝えると約束する。
松前で西組も合流し、見分隊はさらに奥地への探索を計画する。徳内は正確な地図を描くためにと願い出て、厳冬の1月にアッケシへ向け徒歩で検地の旅に出る。アイヌ人が徳内に同行してくれ、次の村へその次の村へと繋がれていった。

「何という広さか…どこまでも平地が続き、果てすら見えない」
空は高く、広い。そして、空に負けぬほどの大地が、眼下に広がっていた。
アイヌ人の案内で、小高い場所から景色を一望した。(中略)
「これがすべて、田畑になったら…」

約50日かけてアッケシに到着した徳内は、イコトイの家来になったとはにかむフルウに迎えられ、旅の間剃らずにいて顔の下半分を覆う髭を和人にしては立派と言われた。
西組の5名が原因不明の病で落命したが、隊員の士気は高く、見分隊はおよそ2年の総まとめをする。しかし、まもなく将軍家治が薨去し、蝦夷地の政策を進める老中田沼意次が失脚、松前藩の糾弾を盛り込んだ見分隊の報告書は差し止めとなる。
東蝦夷でのちに「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれる乱が勃発する。藩家臣や商人の横暴に耐えかねて殺戮に及んだ東蝦夷アイヌの首謀者らが自訴し、37人が処刑された。顛末の確認を必要とする幕府に、志願した青島が徳内を伴って東蝦夷に赴きアイヌ人に話を聞く。
ところが、江戸に戻った徳内、青島は投獄され、青島はロシア人との密通という罪も着せられて獄中死する。解放されても憤怒し打ちひしがれる徳内に、新政権の役人として「蝦夷に行かれたし」と通達が来る。幕府への不審をぬぐえぬ徳内は葛藤の末に心を固める。

アイヌ人として生まれたことを、フルウは誇りに思っている。(中略)その思いが潰えぬように、その当然の希求が成就するように。
蝦夷地にその基盤を築くことが、青島と徳内の目指すものだった—。
たしかに青島亡き後、その思いを誰が継ぐというのか…。

厚岸町は湾が深く入り込み、厚岸湖を包むような地形をしている。湖の穏やかな水面を見ながら、勇敢で平和な民の誇りが失われぬように、という徳内らの願いを思った。

町から厚岸湖を臨む(写真提供:photolibrary

厚岸町の漁港(写真提供:photolibrary


西條奈加(さいじょう・なか)

1964年、中川郡池田町生まれ。2005年、第17回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した『金春屋(こんぱるや)ゴメス』でデビュー。2021年『心(うら)淋し川』で第164回直木賞を受賞。
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