1899(明治32)年の春、永山武四郎は篠路兵村(札幌市北区)を訪れた。これが3度目で、目的は前年に起こった石狩川の大水害にちなんでいる。途方もない被害を受けた各地の視察と督励に派遣された、明治天皇の侍従片岡利和を案内したのだった。この時代の武四郎は陸軍中将であり第七師団長。胸を飾るきらびやかな勲章の数に、兵村の人々は目をしばたかせたという。旧土佐藩士の片岡利和侍従は、明治20年代には天皇の命で北海道の調査を行い、千島列島の探検調査にも足を伸ばしている北方通で、甥には治水や港湾設計で知られる広井勇がいる。若き日の広井は片岡家の書生だった。
1898(明治31)年9月の石狩川大洪水は、北海道史に残る惨事だった。被害は滝川や砂川が位置する中流域から最下流の札幌北部や石狩にまで広く及んで、雨竜川や空知川、夕張川といった大支流の流れも加わったために、中下流域に琵琶湖ふたつぶんもの巨大な湖が現れ、ひと月も引かなかった。流失倒壊家屋2295戸、浸水家屋1万6000戸、水に浸かった農地は4000ha以上という記録が残っている(北海道開発局)。この年は旭川まで鉄路が延びた年でもあり、開拓が進み中流域で原生林が拓かれていくことで大地の水の貯めがしだいに効かなくなっていたことも影響していただろう。石狩川の最下流域に近い篠路兵村でも被害は甚大で、地域の3分の2が水に飲み込まれてしまった。
篠路兵村の中隊本部や官舎、練兵場があったのは、現在の江南神社(屯田7条6丁目)の一画で、江南とは「川の南」の意味。創建当時(1891年)、この場所は南に大きく屈曲する石狩川の南なので命名されたのだ(現在の本流は大きくショートカットされて北に移った)。篠路兵村の開拓史は、つまるところ水との戦いだった。
札幌の北部の本格的な開拓は、新琴似に屯田兵(屯田兵歩兵第一大隊第三中隊)が入植した1887(明治20)年にはじまる。札幌で最後の屯田兵村となった篠路兵村(屯田兵歩兵第一大隊第四中隊)の開村は、その2年後の1889(明治22)年。当時は篠路村に位置したので、篠路兵村と呼ばれた(のちに琴似村。1955年から札幌市に)。7月14日、220人の男たちとその家族合わせて1056人が小樽に上陸した。鉄路で琴似に入り、現地をめざして歩き続けると、原生林の中に220戸の兵屋が散居状態で建てられていた。
この時代はまだ士族屯田の時代。しかし移民団の構成は、東北からの応募はもう底をついていたため、北陸、近畿、中国四国、九州とすべて遠方出身者だった。すなわち、石川32戸、福井20戸、和歌山37戸、徳島29戸、山口43戸、福岡13戸、熊本46戸だ。
屯田兵には兵屋をはじめ当初の食糧や農機具などが支給され、内地に居場所をなくして体ひとつで北海道に流れ着いたような移民たちに比べれば、はるかに恵まれていた。しかもみな士族出身者だから、プライドもある。むしろそのプライドが困難に立ち向かう心の支えだった。平民とはちがうんだぞ、と傲慢になりがちな士族屯田を揶揄(やゆ)した平民たちの挿話は、道内各地に残っている。
一方でもちろん、家族とともに北方の大地と格闘する日々は、それまでの暮らしとは比べものにならない苛酷なものだった。西日本で生まれ育った人々にとって、体がちぎれるような風雪も目にする草木も、まったく未知の世界だった。
篠路兵村が位置するのは、広大な低湿地の一画だ。水にひたされたようなその大地は、石狩川に向かう旧琴似川水系や豊平川水系、西の手稲山系から下る発寒川の水系が太古から作り上げてきた。要するにそのままでは、融雪期や秋の長雨の時期にいつも水をかぶる開墾不適地。道都拡張のためにここを拓くためには、まず何より、水を抜く排水のインフラを整えなければならない。そこで開村に先駆けて、いまの北50条付近で琴似川に合流させていた寺尾掘をまっすぐに北上させて、琴似新川を開削した。琴似新川は茨戸で石狩川に結ばれ、これがのちに創成川と呼ばれるようになる。だからいまの創成川のかたちが作られたのは、このときだ。工事が完成したのは、北海道道庁が発足した1886(明治19)年。排水を進めながら、この新川は札幌中心部と茨戸を結ぶ重要な物流の水路にもなった。工事で出た膨大な土を横に踏み固めて作ったのが茨戸新道、現在の石狩街道の原型だ。
篠路兵村はこの琴似新川を東の境界にして、西に向けて垂直に5本の大きな街路(屯田1番通〜5番通)を開いた。中心軸は3番通(現在の東15丁目屯田通)で、中隊本部が置かれたのは、先述したように現在の江南神社の一帯だ。
入植した家族には、家屋つきの土地5000坪が与えられた。当時の内地の農家のスケールと比べればけた違いの広さだ。さらに大麻や大麦、小麦、小豆、馬鈴薯などの種が支給される。ほかに人々はソバなどを持参していた。換金が容易な養蚕も奨励されたが、野生の桑を探し集めるしか方法はなかったので、成功には遠かった。
篠路兵村の兵士たちには、与えられた自分の土地を開墾するほかに、土地から水を抜くための排水路掘りが課される。土工部隊として来る日も来る日も排水路の整備が進められ、西の端の境界となる発寒川の築堤も重要だった。しかしそんな苦闘も、ひとたび増水に見まわれると水の泡だ。
『屯田90年史』(1978年)の古老座談会には、人々を悩ませた水害をめぐる話として、こんなことが語られている。曰く、「いったん水につかると10日も引かなかった…」。「春の融雪期には畑一面が海のようになって、1メートルもあるコイが家の前に現れたので鉄砲で撃って食べた」。「秋の大雨のシーズンには石狩川本流が心配で、特攻隊を作ってひそかに生振(おやふる)の美登江(びとえ)にあった締切り堤防を壊してよそに水を流した。警察も見て見ぬ振りをしてくれた」——。
話題になっているのは大正から昭和の話だから、排水もさらに不十分だった明治のころの状況がしのばれるだろう。
『屯田百年史』(1989年)には戦争中に行われた入植一世たちの回顧座談会の引用があり、兵屋(自宅)に行くまでの道は膝までつかるぬかるみだったとか、大根を作るにも高い畝(うね)を2尺(66センチ)も盛り上げなければならなかった、などとある。ここは、現在の屯田からは想像もできない水の大地だ。
屯田兵の仕事は、開墾のほかに国防がある。入植して5年。開墾の確たる成果もまだ出せない1894(明治27)年3月。日本と清のあいだに緊張が高まり、屯田兵による臨時第七師団が結成された。司令官は、永山武四郎中将。すでに予備役に入っていた篠路兵村から召集された兵士たちは、大陸に渡るために東京で待機したが、結局戦場に立つことなく終戦を迎えることになる。
1896(明治29)年、篠路兵村は後備役に編入されて、中隊本部が引き上げた。この時点で男たちは当初の兵役を解除されたことになったのだが、日清戦争から10年後の日露戦争(1904-05)では、歩兵第25連隊や歩兵28連隊と合流した後備野戦補充大隊として召集をかけられている。歩兵第25連隊の舞台は冬に向かう満州。乃木希典大将率いる第3軍の増援部隊に編入されて、203高地や遼陽、奉天の戦場で戦った。歩兵28連隊に加わった後備兵たちは、朝鮮各地で守備につき戦火を交えた。戦争は日本の勝利に終わったものの、11人が帰らぬ人となった。
そしてこの日露戦があった夏、篠路兵村をふたたび大洪水が襲う。加えてこの年は、9月に屯田兵制度が廃止された年でもある。1901(明治34)年からは給与地だった土地の個人所有が認められて自立の体制が整っていたし、これからは政府の援助を当てにすることもむずかしくなっていく。働き盛りの男たちを戦争に取られたうえに水禍に押し流されそうになった兵村では、もはや限界と、土地を捨てるものが続出。当初220戸あった入植者は、72戸に激減してしまった。
篠路兵村の多難の歩みは、かつての兵村の一画に作られた屯田郷土資料館で知ることができる。
屯田郷土資料館
北海道北区屯田5条6丁目屯田地区センター内
011-772-18117
TEL:011-772-1811
開館/13:00〜16:00
休館/月曜日
入館料/無料