篠路兵村は、1889(明治22)年に開村した札幌で4番目の屯田兵村だった。兵村は明治の末近く(1906年)に琴似村に移管され、時代が下って1955(昭和30)年には札幌に編入された。このときから篠路村屯田部落の字名は、シンプルに「屯田」と改称されたのだった。地域の子弟を長く育んできた江南小学校も、現在の名前である屯田小学校となる。江南とは石狩川の南を意味したが、開村の時代から水害に苦しんできた土地であることをしのばせる江南の名は、いまは江南神社に残るだけになった。神社があるのは、かつて兵村の中隊本部があった一画だ。
屯田兵が拓いたまちであることを雄弁に掲げた地名は、全道で見ても珍しい。札幌市が政令指定都市となって区制が施行された1972(昭和47)年、一帯は現在の地名である札幌市北区屯田となった。
言葉としての「屯田」の語源はもともと、中国の漢の武帝が北方の異民族の侵入にそなえて重要な地点に置いた兵士(田卒)のことだという。彼らは半農半士で、有事には外敵と戦火を交えた。まさに北海道の屯田兵の源流だ。
屯田の人口が1889(明治22)年の入植時(1056人)を超えたのは、70年近くもあと。実に昭和30年代のことだった。1958(昭和33)年の数字で163世帯1千313人。このころは稲作の全盛時代で、後継者も揃った元気な農家たちが合わせて580haの水田で米づくりに取り組んでいた。入植時の世帯数(220戸)を超えたのは1965(昭和40)年。そして純農村から宅地へと姿を変えはじめるのは、1966年。北海道住宅供給公社が屯田1番通から2番通にかけて屯田団地の造成を計画した。3年後に完成すると、800戸を数える戸建て住宅が整然と建ち並ぶことになった。
1968(昭和43)年に公布された新都市計画法では、高度成長期の市街地拡大に対応するために、市街化区域と市街化調整区域の区分や、開発許可制度が新たに定められた。これにもとづいて札幌市では、1970年に市街化区域と調整区域の線引きを行って、屯田では約三分の一にあたる200haが市街化区域となった。区域では農地から宅地への転換が進められ、開発が本格化していく。
そしてさらに、日本の農村に大変化の波が押し寄せる。国による米の生産調整だ。食生活が洋風化していくなかでも、品種改良や栽培技術の進化で米の生産量は拡大をつづけ、米余りが重大な問題となっていた。そこで政府は政策を大転換。奨励金をつけて、米から麦や豆などへの転作を進めることにした。水稲単作に特化していた屯田では、その影響はとても大きかった。また一方でこのころ、都市化の進展によって水質が悪化して流量も減っていた新川からの取水がむずかしくなっていた。用水路の維持管理の負担も大きい。農家たちは話合いを重ねた結果、1971(昭和46)年の夏には新川用水を廃止。多くの水田が役割を終えた。
創成川からの取水で続けられていた水田も、1978(昭和53)年には52haあまりに減っていた(水田農家41戸)。屯田全体の最盛期のわずか1割以下だ。そしてちょうどこの時期、新川同様の理由から創成川からの取水も困難になった。大正初めに用水路の建設に取り組んだ土功組合は戦後の土地改良法によって屯田土地改良区と改称していたが、1980(昭和55)年、この組織は73年の歴史を閉じることになる。こうして札幌の一大水田地帯の歴史は幕を下ろした。水田農家は畑作に転じ、都市近郊野菜として道都に、バレイショや大根、キャベツ、白菜、レタスなどを出荷するようになった。
しかし札幌オリンピック(1972年)をはさんで成長が急加速する札幌市にとって、屯田はもはや郊外の農業地帯とはいえなくなっていく。市街化区域の指定面積は70年代に入ってさらに増加して、すでに1975(昭和50)年には屯田の人口は1万人に迫っていた。開基90年の1978年には1万3千人を超える。そして2015年には3万人を上回るまちになり、現在では3万8千人もの人々が暮らしている。
『さっぽろ文庫33屯田兵』(札幌市・1985年)には、屯田兵3代目、篠路兵村に入植した旧長州藩士、清太泰時の孫である坂田勝が往時を語っている。このとき70歳。祖父夫妻は長男を屯田兵にして、ほかに5人の男子を連れて入植した。勝は三男の子で、入植者清太の長男が日露戦の203高地で戦死したため、一時的に跡を継いだのだった。勝は、祖父たち入植者には士族としての強い誇りがあったことを覚えている。その一方で、長州からなぜはるばると北海道にまで渡ったのか、これだけはついに話してもらえなかったという。戊辰戦争の最高の勝ち組である長州藩にしても当然、明治の世の激動には光と影がもたらす深い陰影があった。
清太家は男手が多くみな働き者だったので開墾は順調に進み、清太は次男を当別の太美にあった篠路兵村の追給地に分家させた。勝の父である三男も兵村内で分家を果たす。勝の家では兵村の潅漑工事が成功した時点でいちはやく米づくりに取り組み、大正のはじめでようやく暮らし向きが安定した。衰退が避けられなかった部落が、起死回生をはかって米作への大転換に挑んだことは、連載でふれてきたとおりだ。
1989(平成元)年は屯田入植百年を記念する大きな節目の年となったが、坂田勝は記念事業の中心メンバーのひとりとして、『屯田百年史』の編纂や屯田郷土資料館の開設に力を尽くした。
坂田勝を父にもつ坂田文正さんは、1943(昭和18)年生まれ。父の跡を継いで屯田の歴史文化を守り伝える活動に幅広く取り組んでいる。子どものころ坂田さんは、屯田から離れた篠路の親戚の家に行くと、表札に旧士族という文字があったことをよく覚えている。旧士族の誇りはなんと戦後まで絶えなかったことになる。坂田さんは屯田7条7丁目で長く米を作り、屯田で最後まで水田を守ったひとりだ。
「時代は変わっても、いまでも最初の区画が残っている場所があります。平成以降に新たに移り住んで来た方が急増している屯田ですが、土地の名前に屯田がついているこのまちがどんなところであったのか、先人たちがどんな思いで暮らしてきたのか、少しでも興味をもってほしくて、世帯の数だけ冊子を配布しています。屯田を訪れる人も、防風林や、用水路・排水路のあとに作られた緑地などを歩けば、いろいろな発見があると思います」
江南神社はいまも昔も屯田のシンボルだし、その西側には、屯田兵や開拓にちなむ石碑群がある。先人たちが手を入れてきた屯田防風林も、四季を通して多彩な表情で歩く人々を包んでくれるだろう。また、水田の時代から一度は明治期のような畑作の時代に戻った屯田の農業だったが、地域にはいまも、かつての区画のままのジャガイモ畑などがわずかに残っている。そんな景観から篠路兵村をしのんでみることもできる。
坂田さんは、昭和から平成になるころ、開基百年の事業に取り組んでいた父が言っていたことをよく覚えている。それは、これからは自分たちが新たな屯田兵になろう、というもの。自分たちの時代の屯田のまちづくりを、かつての屯田兵のような気概で進めていこうという気持ちだ。
「篠路兵村には、西日本と北陸の7県の人々が入りました。言葉も土地の歴史もかなりちがう。だから母村の伝統を伝えるような文化がまとまりとして残りませんでした。それが残念といえば残念です。その意味で私たちは、現代の屯田で後の世にしっかりと伝わるものを育てていきたい。いままちには、屯田太鼓や屯田音頭、屯田みこしといった地域の文化があります」
長大な防風林に囲まれた屯田には、加えて、規模の大きな公園がいくつもある。屯田兵家族一戸に5000坪が給付された、かつての給与地のスケールが細切れにされずに活かされたからだろう。明治大正期に水害と闘い、米づくりに挑戦したような自治の精神にあふれた暮らしがそんな環境で営まれるとしたら、屯田はさらに豊かな個性を未来に伝えていくまちとなるかもしれない。