屯田を歩く-2

未来を託した米づくり

戦後に米軍が撮影した、水田が広がる屯田地区。下に斜めに延びるのが、旧・新琴似兵村との境界になる防風林(国土地理院資料より)

商業施設の進出や増築、さらに公営住宅の建設などで近年めざましく活気づいているのが、札幌市北区の屯田地区だ。源流である篠路兵村の開村からちょうど130年。水害をはじめとした苦難の重なりからこの地域を救ったのは、起死回生を賭けた米づくりだった。
谷口雅春-text&photo

衰退の一途をたどった篠路兵村

1874(明治7)年に作られた屯田兵制度は、北方警備と開拓を同時に担う屯田兵の役割が所期の目的を達したと目された、1904(明治37)年9月で廃止された。そこにいたる前での離村家族も少なくなかったが、これ以降、道内各地に入植した兵士と家族たちには、その土地の草分けとして生きることを選ぶ人々もいた。

篠路兵村(現・札幌市北区屯田)にとって1904(明治37)年は呪われたような年だった。まず5月、入植者220家族一行が運命を託して北海道をめざした思い出の輸送船相模丸(1855トン)が、日露戦争で沈んだ。相模丸は旅順港の湾口をふさぐ旅順港閉塞作戦に動員されて、帝国海軍の手で沈められた船の一隻となってしまったのだ。しかも作戦は不首尾に終わったため、戦果にも直接つながらなかった。

そして7月。働き手である男たちが日露戦争で大陸の戦場に送られる事態と、6年前の大水害をいやでも思い出させる水禍が同時にやってきた。もはやここでは暮らしていけないと離村者が続出。原生林を自力で拓いた給与地5000坪は、このころは登録が免除されて個人の所有になっていた。だから離村家族は売ることができたのだが、借金を払うとわずかしか残らず、農具や家財道具を処分する市が開かれた。村に残った人々は少しでも足しになればと、無い金を出し合ったという。220戸1056人ではじまった篠路兵村はこの年、72戸555人に激減してしまった。戸数にしてわずか三分の一。去る者と残る者、どちらにも深い絶望があった。そして残った人々は、全家族が団結してなんとしても苦境を乗り越えようと心に期した。

石狩川水系や発寒川の最下流域のこの大地は、つねに水と共にあった。春の融雪期には水が残り、5月の声を聞くまでは畑起こしもできない。バレイショや大根、大麦、豆類などの播種はいつも6月に入ってからだった。ようやく芽が出た作物を、強烈なやませ(東からの季節風)が襲う。こうした悪条件のせいで作物はしだいに絞られ、やがて牧草やエン麦が主力になっていく。1908(明治41)年に苗穂に陸軍糧秣本廠札幌派出所(現・陸上自衛隊苗穂駐屯地)が設置されると、日清・日露の戦勝を受けて軍馬用のエン麦の作付けが奨励されて、札幌北部の農場は活況を呈していった。丘珠やモエレ沼周辺(札幌市東区)などでもこの時期は盛んにエン麦が作られている。さえぎるもののない原野に暮らす人々を悩ませた季節風も、収穫したそれらをニオ積みにして乾かすには好都合だった。しかし村をあげて同じ作付けではすぐ供給過剰状態となってしまう。低品質のものは出荷できず、出荷できても売値は叩かれるようになった。このままではやはり立ち行かない。
篠路兵村の人々がここで決意したのは、水田を拓くことだった。士族の誇りを胸に飛び込んだ異郷での農業だが、どうせやるなら米だ。米は、主食になるのはもとより、稲わらでムシロや縄、ツマゴ、ワラジなどさまざまな生活具を作ることもできる。

水田を作るためには水を引かなければならない。膨大な手間と資金が要るだろう。専門家の力を借りて計画を立ててみると、水は新川と創成川から引いて、必要な予算は10万円。創成川から引くだけなら予算は大きく減らせるが、創成川にそれほどの水量はなかった。10万円はいまの10億円ほどにもなる途方もない額。しかし屯田兵村には村の将来のために、公有財産として広大な土地が給付されていた。篠路兵村の場合は、当別や厚真や厚別など遠隔地が多かったが、全体で328万5千坪。その一部を売って、足りない分は日本勧業銀行から融資を受けることにする。
1906(明治39)年、篠路兵村は篠路村から琴似村に移管されて、琴似村大字屯田村となった。通称屯田部落。そして1910(明治43)年4月、村では水田づくりを可能にする潅漑溝建設を進める土功組合の設立をまず琴似村村長に申請。議会の承認を受けて1913(大正2)年9月、組合は北海道知事の認可を得た。いよいよ米づくりへの挑戦がはじまる。針路が開けたのはすべて、広大な公有財産地があったおかげだった。

新川は、豊平川扇状地の扇端からの枝流を集めた琴似川や、手稲山系から下る発寒川の水系を束ねるために、明治中期に掘られた全長13kmにおよぶ人工河川だ。茨戸の語源がアイヌ語のパラ・ト(大きな沼)であるように、札幌北部の大地にはつねに膨大な水が押し寄せた。春の融雪期や秋の台風シーズンには、流れ切れない水が茨戸から屯田方向に逆流する。新川には、北の茨戸に向かう水系を断ち切って石狩湾に直接流すという重要な役割があった。こうして明治半ばに新川が竣工したことによって、札幌北部への入植がはじまったのだった。

 

村をよみがえらせた潅漑溝

1914(大正4)年6月。屯田村にとって生き残るための唯一の道である、潅漑溝の工事がいよいよスタートした。新川からの導水門は新川と茨戸街道(現・琴似栄町通)の交差点から少し上流(現・北24条西18丁目)に設けられた。新川の水は、新琴似と屯田を結ぶ茨戸街道に沿って北上。新琴似を通っていまの屯田防風林に達する。そこで左に折れて防風林の中を直進。屯田第二横線のところで右に折れて、第二横線に沿ってまっすぐ発寒川に抜けた。第二横線とは、いま屯田地区センターや江南神社がある南北の幹線道路だ。

すっかり直線化された現在の発寒川。茨戸で茨戸川(旧石狩川河道)に合流する

一方創成川の導水門はいまの麻生球場のあたり。創成川に沿って北上して茨戸街道をくぐり、2番通と3番通の中間で左折して西進。第二横線をくぐって直進しながら安春川に注いだ。現在は発寒川に注ぐ安春川は、これも湿地の水抜きのために掘られた大きな排水路だ。隣村の新琴似兵村の中隊長だった安東貞一郎と、工事を請け負った春山という人物の名前を取った地名ともいわれている。現在の発寒川は治水工事によって直線だが、当時はもちろん湿原でゆったり気ままに蛇行を重ねている自然河川だ。
工事は400日あまりかけて翌年の夏に完成した。村中は歓喜であふれる。計画通りの水量には至らなかったものの、これで屯田を美田に変えようという悲願の足場ができた。

明治30年代から、道庁では寒さに強い水稲の品種改良が成果を上げていた。「坊主」の系統だ。待望の水を得たものの、しかし屯田の米づくりは順調なスタートを切ったわけではなかった。なにしろもとは士族屯田。内地で米を作っていた家などほとんどなかったのだ。これ以前に細々と田を作っていた家もあったが、大正初めのこの時期の兵村には、離農者の土地に小作で入っていた水田経験をもつ家族があり、人々はそうした農家から学んでいった。
馬もいやがるような冷たい田に入ってしろかきが始まるのが5月末。タコ足というトタンの道具を使ってモミを直接播(ま)いていく。収量を上げるためにやがて苗代で苗を作るようになったが、水温が足りずに苦労の連続。米づくりが安定したのは、温床苗代という手法が普及した大正末のころだった。これは土中に温熱管を通した現代のビニールハウスと同じ原理で、土中にワラなどで発酵熱を作って苗を育て、熱を逃がさないように油障子で覆(おお)う苗作りの手法だ。屯田地区の土壌は粘土と泥炭が縞状に並んでいて、粘土の土地は特に水田に向いていた。隣の新琴似が畑作を軸にした農業を展開したのに対して、用水路の支線が張りめぐらされた屯田では水田がすみずみに広がっていく。1919(大正8)年には早くも600haもの美田が営まれ、開村50年を数えた1938(昭和13)年には675haにまで広がっていた。屯田は札幌の米どころと呼ばれるまでになっていく。

篠路兵村の水田開発には、もうひとつ裏話がある。隣村の新琴似兵村でも米づくりをしたい農家が少なからずあり、新川からの水利権の争いが起こったのだ。しかし役場を交えたねばり強い交渉のすえに新琴似側の熱がさめた。多額の折衝費を使ったという言い伝えもあるが、いまとなっては詳細は知る術もない。以後屯田は水田単作、新琴似は畑作と互いの針路を定めていった。

戦後の農地改革によって屯田の農家はすべてが自作農となり、屯田の歴史は米づくり地帯として刻まれていく。1958(昭和33)年の数字では、屯田の人口は163世帯1313人。篠路兵村開村(1889年)当時よりも少ない、まさに純農村だ。しかしそれから57年経った2015年には、1万6328戸3万7328人。世帯数でちょうど百倍に増えている。近年の屯田は札幌の中でも、人口増がとびきり顕著な地区となっている。

潅漑溝のあとはいまどうなっているだろう。新川からの幹線の痕跡は街並みに飲み込まれていったが、その終着点、発寒川との合流点にはいまも遊水池が残っていて、バードウォッチングのポイントとなっている。パークゴルフ場もある。創成川の水を引いた用水路のあとはいま遊歩道のある緑地となり、「屯田みずほ通り」として地域の人々の憩いの動線になっている。米づくりの歴史を伝えるように石狩街道とは歩行者専用の「さなえ橋」で結ばれているが、ふたつの大きな公園にもつながっていて、犬の散歩やジョギングを楽しむ人も少なくない。

創成川から取水した用水路のあとに作られた「屯田みずほ通り」

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