屯田を歩く-3

大地と防風林から見る屯田

現在の屯田地区の空撮。逆コの字の防風林が見える(画像提供:©Google, ZENRIN)

大地の成り立ちから見ると屯田はどんなまちだろう。地形図からは、フラットに広がる街並みを囲む防風林の連なりと、北側にある砂丘列が見える。札幌で最後に作られたこの屯田兵村(現・札幌市北区屯田)を大きく捉えるには、防風林と紅葉山砂丘が最適な案内役になる。
谷口雅春-text&photo

篠路兵村の輪郭を示す防風林

札幌で、屯田地区(旧篠路兵村)ほど地域史の輪郭がわかりやすく刻印されている土地があるだろうか。現在の札幌市北区屯田を空から見ると、かつての篠路兵村の境界が防風林によってくっきりと区切られている。平地の住宅地にも残されたこの防風林は、先人たちの開拓の足跡を示す貴重な歴史資源だ。また林内には季節を追ってさまざまな動植物の営みがあり、地域の価値を高める固有のリソースになっている。すぐ隣に野草の群落や野鳥のさえずりがある日々は、なんと豊かな日常だろう。

札幌北部から石狩にかけては、冬は石狩湾からさえぎるものなく吹き込んでくる強烈な北西風に見まわれ、春先には東からやませが吹き荒れる。ようやく雪が溶けて農作業がはじまるころにやって来るやませは、畑作の時代は目も開けていられないほど表土を吹き上げ、水田の時代になるとあおられた水が田の畦を越すほどだったという。大地の熱と水分を奪ってしまうことも恐ろしかった。
強風を見越して北海道庁では、殖民区画の段階で防風林として残す林地を設定して、開墾はそこをはずして進められた。各戸の建築資材は現地でも調達されたから、篠路兵村の入植者たちの記憶では、開墾する原野の大木は伐られていて、あまり残っていなかったという。残した区画の原生林に植林や手入れを繰り返したり、一度伐採した林の後に植林することで今日につながる防風林ができたのだった。この連載でふれてきたように、篠路兵村の第一の敵は水害だった。そして強い季節風もまた、人々を苦しめ続けた。道庁が発足した翌年の明治20年(1887年)までに札幌には、琴似、山鼻、新琴似と3つの屯田兵村が作られた。1889(明治22)年にこの4つめの屯田兵村が拓かれなかったとしたら、屯田地域の開拓はさらに大きく遅れたに違いない。

明治30年代は、全道各地に鉄路が延びて内陸への入植がいよいよ盛んになった時代だ。第1回の道会議員選挙が行われたのが1901(明治34)年で、北海道はようやくひとつの自治体として立ち上がろうとしていた。北海道国有未開地処分法という法律によって、大土地所有をねらう内地の資本が呼び込まれ、各地に不在地主が小作を集めて拓く農場が生まれていく。北海道庁による北海道開拓の最初のグランドプランである北海道拓殖十年計画がはじまったのもこの1901年だ(日露戦争による財政悪化で計画は未達に終わる)。

屯田地区(篠路村屯田部落)は、琴似や札幌の市街から遠く離れて独立した農村だった。一帯は1906(明治39)年に篠路村から分かれて琴似村に併合されたが、隣の道都札幌の人口はまだわずか1万7千人ほど。札幌市街をめざして石狩街道を南に進んでも、途中にある人家は6、7戸しかなかった。道路ももちろん、森を縫って湿地を渡る連続のような粗末なもので、馬が湿地に飲まれて腹を水につけるようなことも珍しくなかった。また琴似村は、琴似と新琴似、そして篠路と3つの旧屯田兵村を抱えることになり、屯田兵制度廃止(1904年)のあとは3つの融和に骨を折ることになる。

屯田だけではなく、石狩にかけては幾筋もの大きな防風林がいまも守られて、独特の景観を作りだしている。その中で屯田の防風林は、南、西、北の三辺にあり、逆コの字状に伸びている。残った東の一辺は創成川だ。
東西に延びる北側の防風林(屯田町)は発寒川を望み、水害に備えたためだろう、川岸から少し距離を置いている。防風林と発寒川とのあいだも兵村だった。西は、排水路である安春川の西に安春川と並行して伸びていて、川と林のあいだには現在もまだ牧草地がある。地域にいちばん親しまれているのが、新琴似との境界に伸びる屯田防風林で、茨戸街道(現・琴似栄町通)に接した屯田1条1丁目から5条12丁目にかけて3km近くもつづく。

大正はじめに植えたポプラが見事に育った現在の屯田防風林


屯田防風林の整備が本格的にはじまったのは1914(大正3)年。大正天皇の即位記念として、茨戸街道(現・琴似栄町通)が創成川を渡る中島橋から1.3kmほど先まで、新琴似との境界上にポプラを植えた。『屯田七十年史』にはその数7千本とある。ほぼ同じ時期に創成川の対岸、太平の人々も茨戸新道(現・石狩街道)沿いにポプラを植えはじめる。茨戸方面に向かって現在も残る、名物のポプラ並木だ。

屯田防風林は、まわりに住宅が建ち並ぶのも早かった。戦後まもなくから再整備が進み、主にヤチダモが植えられた。自然に生えていったヤナギなどもあって、豊かな緑陰を作り出していく。地域の人々の手で結成された琴似防風林愛護組合が、維持管理に当たった。洞爺丸台風が北海道を蹂躙(じゅうりん)したとき(1954年)には人が入ることができないほど倒木被害が出たが、地元総出で処理にあたり、薪炭材や農業資材に活用した。組合には札幌営林局長から感謝状が贈られている。

1970年代に入ると、この防風林の中でシンナーを吸う青少年が出てくるといった問題が起こり、防風林に最小限の手を加えて遊歩道にすることが望まれるようになる。その後議論や手続きが進み、屯田防風林は地域にさらに親しまれる林になっていった。2004年に発表された「美しい日本の歩きたくなるみち500選」(一般社団法人日本ウオーキング協会選定、国土交通省など後援)では、札幌で唯一「歩きたくなる道」に選ばれている。

 

屯田兵が眠る屯田墓地

篠路兵村の屯田兵たちが眠っているのが、発寒川の対岸の砂丘にある屯田墓地だ。往時はみな土葬でもあり、水害に会わないように墓地は丘陵地に作られた。現在の住所は石狩市だが、墓地の管理者は札幌市。そもそもは兵村開村の2年後の1891(明治24)年に国有地が給付され、高低差や条件に幅はあるもののひと区画20坪という広い墓地用地が、全家族分(220区画)用意されたのだった。
屯田からこの墓地に行くには、発寒川を渡る紅葉橋を通る。別名「涙橋」。故人を埋葬したあと、野辺送りの最後にここで墓地をふりかえりながら帰途についたことからつけられたという。

篠路兵村を拓いた人々が眠る屯田墓地

紅葉橋の名前は、紅葉山砂丘に由来する。だがなぜこんな内陸に砂丘があるのだろう。紅葉山砂丘は石狩湾から5~6km内陸を海岸線と平行して延びている。いまは開発によってほとんどが削られたが、かつては手稲山麓から石狩の花川、生振(おやふる)を経て石狩川対岸の美登位まで、砂丘群が集まって15kmもつづいていた。幅は広いところで500m~1km、標高は10mほどで、屯田墓地の北東隣にある紅葉山(石狩市花川東)の標高約18mが最高地点だ。

時間のスケールを拡大しよう。6千年ほど前、温暖化で海水面はいまより数mも高かった。石狩湾は現在よりもはるかに内陸に食い込んでいて、いまの札幌の多くは浅い海の下だ。石狩低地帯の南側でも、海は現在の新千歳空港のあたりまで食い込んでいる。いわゆる縄文海進の時代だ。そして潮流や風によって古石狩湾と外海のあいだには砂州ができていく。砂州は湾口をふさぐほど巨大に成長を重ねて、温暖化が終わって海水面が下降していくとともに、内側は石狩川の水系が運びつづける土砂で埋まっていった。5千年前ころには湾は完全に陸地化して、砂州は陸の上で砂丘となる。これが紅葉山砂丘の原型だ。
だが陸地化されたといっても大部分は低湿地で、まだ人が住める土地ではない。手稲山系から下る古発寒川は砂丘に行き先を曲げられて茨戸で石狩川に合流したが、縄文の人々はこの古発寒川沿いの砂丘で暮らした。いまは埋まっている当時の川筋からは、古発寒川を上るサケを獲るムラの遺跡がたくさん見つかっている。中でも石狩紅葉山49号遺跡(石狩市花川)からは、サケを獲る木製の高度な仕掛けなどが1990年代半ばに発見されて、大ニュースとなった。

発寒川は篠路兵村の北の境界となったが、兵村の大地の成り立ちは古石狩湾が埋められてできた低地にあり、川の増水で水があふれたときも、紅葉山砂丘がじゃまして水は引きづらかった。いまは住宅街の中にひっそりたたずむ屯田墓地の存在は、篠路兵村の大地のあゆみや成り立ちを、僕たちにわかりやすく示している。

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